サイバー老人ホーム

224.我が「昭和33年」11

 224.我が「昭和33年」11
 戦後、「近代化」の掛け声の下に、日本が持っていた、伝統的幾多の文化遺産が放棄され、新建材や、新材料などの出現により、日本の伝統的住宅の多くが、国籍不明の住宅に代わって行ったのも昭和30年代の頃ではなかったろうか。

 更に、産業振興の名の下に、自然環境の多くが犠牲になっている。生産性や収益性が重視され、各地で産業公害が発生し、現在の中国と同じような状態が出現している。

 ただ、中国と違って、製品の品質や安全性で、「先進欧米諸国に負いつけ、追い越せ」の考えが徹底しており、売り逃げや儲け逃げなどはそれほど無かったと思っている。

 「昭和33年」によると、「昭和33年をいろいろの切り口から検証してきた。今から半世紀近く前の年は、「あの頃はよかった症候群」が思うほど、良い時代ではなかった。あの頃はまだ日本は中進国だった。世界でもっとも豊かな先進国の一つとなった今の日本のほうが、遥かに生活しやすく、人々も幸せに暮らしている」と書かれているが、果たしてそうだったのだろうか。

 確かに、現在は物の面では、当時と比べて比較にならないほどよくなっている。ただ、物の豊かさが、真実人々の幸せにつながったかと言う事には疑問がある。

 「昭和33年」には、速水敏彦さんと言う方の「他人を見下す日本人」と言う著書を引用して、「今後予想される社会は個々ばらばらの社会である。誰もが競争に勝ち抜くためには、先手をうつかたちで、周りの相手を軽蔑したり軽視したりするのである。学校でも会社でも、人は自分の幸せだけに関心を持ち、みんなで支えあう農耕社会的要素をすっかり忘れてしまうだろう」と言う記載に対し、「「オイオイ、マジかよ?」と言いたくなるような内容のものばかりだ。」と言っている。

 私は、昭和30年代は、実践社会であり、付加価値経済だったと思っている。実践とは、生活の全てが実践、すなわち実労働によって成り立たっている事であり、それに対し、現在は情報化社会、極論すればバーチャルの中に出来上がっている社会だと思っている。

 確かに、国内で生産しようが海岸で生産しようが、付加価値の創造であることに間違いはない。ただ、その結果、国内に多くの失業者を生む事にどう向き合ったら良いのだろう。

 かつての日本では、人々は生活の全てにわたって、かかわりを持っていた。それが、「近代化」や、「国際化」「情報社会」など様々な掛け声とともに、人々との関係が疎遠になり、孤立化してきている。

 社会と言うのは、人々との係わり合いを持って成り立っていると思っているが、その社会の成長とともに、様々な文化は発展していくのではなかろうか。歴史を振り返っても、勝者だけで社会が発展したと言う歴史はない。

 将来どちらが人々にとって幸せかと言う事は断定できないが、人々の生活主体に考えた場合、「農耕社会的要素」に注目しようとする、最近の傾向をあながち、「マジかよ?」と言って一笑に付す事でもあるまい。

 当時、「赤かぶれ」と言う言葉があった。理論的に完全に理解したわけではないが、なんとなく左翼思想に同調するといった程度で、私なども其の部類であった。その背景には、貧しさからの脱却であり、その説明には、これがもっとも分かりやすかったのである。

 当時労働組合にも、ユニオンショップだ、クローズドショップなと、様々なかたちでお互いにしのぎを削っていたが、夫々の労働組合において多くの犠牲を払いながら、烈しく経営陣に立ち向かっていた。そして、夫々が干渉し合い、いかにして豊かな社会を目指すか夫々に切磋琢磨してきた。

 昭和33年頃は、その絶頂期ではなかったろうか。この頃は労働組合の率いる労働者が主体に階級闘争を推し進めていたが、やがてこの流れは、学生運動に波及していった。

 その転換点が、前にも言った60年安保闘争であった。一方、労働者側では、逆にこの頃を境に現実路線に変わっていったような気がする。その背景には、貿易自由化の前に、生き延びるためには現実に有るかどうか分からないプロレタリア支配などを考える前に、ビジネス前線で生き延びる事が、まず第一と言う考えである。

 企業間で、こうした労働組合の切り崩しや、方向転換への介入が行われ、同時に会社傀儡のような「ブルジョア執行部」などが誕生し、オピニオンリーダーとしての立場が緩んでいった。

 そしてこれを決定付けたのが、「連合赤軍事件」である。この「連合赤軍事件」は、学生活動かを中心に、昭和46・47年に起きた事件であるが、その前章として、高度経済成長の裏で激化の一途をたどっていた学生による第二次安保闘争(昭和45年)、それと時を同じくして、全国の国公立・私立大学において授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学の学生が武力闘争を展開する学園闘争が起こった。

 この事件を象徴する学生が東大安田講堂を占拠し、これを警察も機動隊が実力で撤去するのを逐一テレビで実況放送し、二日目に安田講堂封鎖は解除された。
 この「安田講堂事件」後、東大全共闘の革マル派は、後日他セクトから「日和見主義」などの批判を受け、他セクトとの対立を深める結果となった。

 そして、出現したのが、「連合赤軍」である。彼らは榛名山麓において、しばしば総括と称して各人に政治的な反省を迫り、12名もの同志を殺害している。このあとメンバーの一部が、軽井沢の別荘「浅間山荘」に立てこもり、殉職者二名を出しながら機動隊によって逮捕解決された。

 この事件があったとき、吐き気を覚えるような不快感を感じ、この一連の事件を契機に、左翼的思想に幻滅を感じた人が多かったのではなかろうか。理想はいくら立派だとしても、自分の主義主張のために、人を殺すなどと言うことは絶対にあってはならない事。

 そしてこの時より20年後、ソビエト連邦は崩壊し、わが国左翼思想家の理想の姿は雲散霧消した。そして労働組合は無力化し、かつて世界最高といわれた日本式経営は影を潜め、企業と労働者の絆は失われていった。そしてバブル崩壊とともにタブーであった人員整理が、リストラの名の下に行われた。

 そして、多くの若者や労働者は思想のない烏合の衆と化し、統制される事は嫌うが、自分の権利だけは主張する新人類と言う若者が出現し、あるものは金の亡者と成り、あるものはニートとして人間の尊厳すら失ってしまった。

 今更昭和33年に戻せなどと言う気もないが、今となっては、国民の絆を回復し、この国を救える唯一の道は、速水敏彦さんの「農耕的社会要素」なのかもしれない。(07.06仏法僧)