サイバー老人ホーム

214.我が「昭和33年」1

  今、「昭和33年」と言う本が話題になっているらしい。中身についてはまだ読んだこともないので分からないが、私が社会人となったのが昭和31年だから、それより2年後と言うことになる。

 当時、私は東横線の元住吉と言う町の会社の独身寮で生活していた。この町、私が都会生活を始めた最初の町で、隣の日吉が閑静な住宅地であったが、元住吉は、むしろ庶民的な商住地であった。

 駅前の狭い道を市営バスが軒をこするように走っていて、まだ舗装もしてなかった。取り分け特色のある商店街ではなかったが、一応何でもそろっていたように記憶している。

 独身寮は、駅から歩いて15分ほど離れた周りが田んぼに囲まれた、閑静と言うより田舎臭い場所にあった。建物は、2階建て3棟に分かれていて、各階ごとに○○会と言うような名前が付いていた。
 
 建物の後ろには結構広い溜池があり、時々子どもたちが四手網を持って魚を採りに来ていた。どんな魚が取れるか除いてみると、熱帯魚のような「タナゴ」が採れていた。

 駅から寮に行くまでの小道に沿ったどぶ川には、ザリガニがいて、生まれて始めてみたときはサソリかと思って非常に驚いた。

 寮は、通常は8畳間2人であったが、最初は二人の先輩と3人部屋になった。それから間もなく2人部屋になったが、当時、これでも寮に入れるというのは幸運であり、この頃同じ高校を出て、就職した友人のところを訪ね、4畳半と言う部屋を生まれて始めてみたて、その幸運を実感した。

 毎晩敷布団の下に翌日履いていくズボンを敷いて寝押しをしたが、ちょうど筋目のところに行かず、何時もズボンには何本かの線があった。

 当時、朝夕の食事つきで、寮費は2〜3千円ではなかったろうか。ただ、日曜の昼は各自自弁であり、これが大問題であった。食事は、ご飯は丼の盛り渡しであり、それにおかずと味噌汁が付いていた。

 育ち盛りの青年に、これだけで間に合うわけもなく、常に腹をすかせて、時には肉屋の窓口でコロッケを買って食べながら帰った。賄いに、タマちゃんと言う女性がいて、ご機嫌を損ねると盛りが少なくなるので、何時もご機嫌を取るように気を使っていた。

 毎月1回会食があり、このときは会社から勤労課長など見えて、少々の酒と御馳走にありつけた。この会食には、誕生者が紹介され、有志がそれぞれに歌を歌って楽しんだ。
 もっとも、このとき唄われた歌は、マキノ雅彦さんの映画「寝ずの番」唄われた歌が主であったように記憶している。最後に、会社にもなかった荘重な寮歌を一同で斉唱した。

 寮には、毎年1回、寮祭と言うのがあって、各階ごとに劇などを催し、このときだけは会社の女性たちが来てくれ、個室に招待する人などもいたが、新入社員にとっては垂涎の思いで眺めたものである。

 コンパと言う言葉を知ったのもこの時期で、寮祭の後、先輩の部屋を訪れ、大酒を飲み、お決まりのザレ歌を歌った。勢いが付いてそのまま町に繰り出し、ワッショイワッショイの掛け声もろとも走り回った。

 途中で町の人が「なんですか?」と立ち止まって眺めており、周りから「○○(会社の名前)の子どもたちですよ」なんていっているのが聞こえた。

 会社は生産会社だったので、大勢の従業員がいて、工場に中にはまだ戦前の迷彩塗装を施した鋸屋根の建屋があった。

  昭和33年頃は神武景気などといわれているが、好景気などと言う実感は全くなかった。なべ底景気と言う不況が何時だったか忘れたが、私がこの会社に入る1年前に、人員整理を行い労働争議があった。

 これは、朝鮮戦争の休戦により、動乱特需が無くなった為と言われているが、全国いたるところに赤旗が林立し、労働組合がもっとも強かった時代ではなかろうか。

 私が入社した年に、会社はIBMの電子計算機を導入し、同期に女性のキーパンチャーを大勢採用し、それはそれで嬉しかった。都会の女性の洗練された服装や物腰が、胸をときめかせた。

 男子の事務員は、たいがい腕に手甲と言う腕カバーをはめていた。上着の袖が汚れないための配慮である。机や椅子は今と違って全て木製であり、先輩たちの使った古いものだった。

 筆記具は一般にGペンと言う付けペンで、机の上にあるインクつぼにペンを浸しながら、ペン蛸が出きるほど1日中伝票を書き続けた。電卓などと言うものは勿論なく、事務系はそろばん、技術系は計算尺と言うのが一般的なスタイルだった。

 ここでも楽しみは、昼飯であったが、昼のサイレンがなると狭い食堂に我先にと一斉に駆け出していた。
 昼飯は、当時ガンガンといわれていたアルミ製の二つ重ねの弁当箱に、上はおかず、下にご飯は入っていた。食べ終わった後、残飯を入れる容器の淵に、ガンガンと打ちつけて残飯を掻き出すためにこの名前が付いた。

 したがって、食器の縁はかなりいびつで、おまけに洗浄がコンベアーで熱湯を通すだけだから、見た目はかなり変色して汚らしかった。

 おかずの中で、最も印象深いのは「鯨肉の竜田煮」だった。今では、鯨肉と言えば珍味の部類に入るのかもしれないが、当時は盛り付けが簡単だったためかむやみに多かった。まるで、ゴム靴の底のような黒い塊がでんと入っていて、当時は極めて頑健な歯をしているので噛み切れたのかもしれない。(07.03仏法僧)