サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

167.写 真

 近頃めっきり有り難味の無くなったものに写真がある。その理由の一つに誰でも写真を作れるようになったこともその理由の一つかもしれない。

 先日旅行した際に摩周湖の展望台で写真を取っていると、回りに同じような観光客が手に手にカメラを持って写真を撮っていたが、どこか以前と様子が違うのである。カメラを顔の前に持っていってファインダーを覗きながらぱちりとシャッターを押すというのではない。

 大多数の人が面前にカメラを掲げ、モニターを見ながら音もなくシャッターを押すデジカメである。私も何年か前に買ったデジカメだが、当時のモニターは今ほど大きくなく、その上電池の消費が早い事からタイルは昔のままのファインダーを覗いてシャッターを押している。

 加えて最近は携帯電話がカメラ代わりになるということで、あっちでもこっちでも撮りまくっている。これだけ写真が増えると撮られるほうもその都度愛嬌を振りまいてはいられない。
 むかしどこかの原住民が、写真を撮られると魂が抜かれるということで、かなり険悪な雰囲気になったテレビ番組を見たことがあったが、今では空中を無数の画像が飛び交っていると思うと魂どころか命すら抜かれることにもなるのかも知れない。

 この洪水のような画像の氾濫の中で、逆に肖像権がうるさくなったと言うことはいかにも皮肉である。

 思えば私が自分のカメラを手にしたのは実社会に入って何年かたった昭和三十年代の初めの頃である。当時ごくありふれたコニカV型というカメラだったが、月給の二ヶ月分以上の貴重品だったように記憶している。

 そもそも写真というのが一般的になったのは富士フィルムのいわゆるバカチョンカメラが普及してからであるが、私の子供の頃は1年に1回写真を撮るかどうかという話で、中学のときの修学旅行でもカメラを持っていった友達は居なかったように記憶している。

 それ以上に私が就学前に写っている写真といえば、4歳ごろ村での何かの行事で親父に抱かれて大勢の村人たちと写っている写真が1枚きりである。私の場合が取り分け特殊なケースということではなくごく当たり前であった。なぜなら小学校(当時は国民学校)入学当時でも全体の記念写真すら撮らなかった時代である。

 学校に上がってからは五年生のとき学芸会の後出演者だけで撮ったのが最初で、これは担任のY先生の個人的な影響力によるところが大きかった。それ以降は徐々に増えていったが、現在のようにスナップ写真と違って、きちっと整列して「はぃ、撮りますよ」パチリということで殆どすまし顔で写っている写真ばかりである。

 高校卒業のとき、初めて写真館という所に行って個人写真を撮った。それが当時の高校生に風潮で、実力以上に旨く撮れた(修正した)写真を持って、3年間ずっと思い続けていた女生徒の前に行って、おずおずと「写真交換してくれないか」などといったものである。

 そもそも写真というものは贅沢品というよりか、むしろ特異な存在だった。写真を撮るといえばよそ行きの服を着てすまし顔で撮るというのがごく一般的な考えで、今のように所かまわず写真を取りまくるというようなことは無かった。

 フィルムは勿論モノクロで、戦後最初に出現したカメラは二眼レフといって弁当箱のように大きなものだった。これを後生大事に首から提げて自慢げに走り回っているのがハイカラなおじさんのスタイルでもあった。

 写真サイズはカメラに装填したフィルムをそのまま焼き付けた密着版、その上が名刺サイズ、手札サイズと続きキャビネサイズと続くのである。
 カメラを持って何年か後に、友人が焼き伸ばし機というのを購入し、二人で狭い押入れのもぐりこみ、夜を徹して写真の焼付けをしたこともあった。

 その後、友人の一人がやっているプロラボというのを手伝ったことがある。プロラボというのはプロの写真家が撮影したフィルムを現像し、指定のサイズに焼き伸ばす商売であるが、それまで写真家の写真など、被写体に恵まれシャッターチャンスに恵まれれば誰でも撮れるものと思っていた。
 勿論、そのことは良い写真を撮る大きな要素だが、同時に一般にEDPといわれる現像、引き伸ばし、焼付けの段階でも写真家の要望を入れて微妙な手加減をすることによって一枚の写真が出来上がることを知り、いかにも手作りの写真の芸術性というものが少し分かったような気がした。

 かつて映画の黒澤明監督がモノクロ映画にこだわり続けたが、写真というものはカラーよりモノクロのほうがイマジネーションを広げるような気がする。今ではセピア色に変色した若かりし頃の写真帳を広げると、思い出の幅が無限に広がってくるような気がする。

 一方最近のカラー写真というのは間違いなくそのときの事実は見えるが、写真の背景にあるものは見えてこないような気がする。
 勿論、写真などというものはそれだけのもので、それ以上のものを望むことが無理なことかもしれないが、それにしても最近のデジタル化により写真も紙から記憶媒体に変わってきたようであるが、果たして今のシステムがいつまで続くことやら、洪水のような画像の氾濫の中で、写真に思い出などを差し込む余地はとっくになくなっているのかもしれない。

 もっとも、高校のときに写真交換した憧れの彼女に何年か前の同級会でお目にかかったが、当時の写真がセピア色に変色する以上に双方とも相当に変色していたのも事実である。(04.08仏法僧)