サイバー老人ホーム

264.騒 動4

 それによると、幸吉は騒動のあった日に、調べ物が有って小諸まで出かけて、騒動に巻き込まれた。

 幸吉は結局、江戸送りになり、小伝馬町の牢で厳しい詮議が行われたのであろう。罪は比較的軽罪で済んだが、一揆の場合、首謀者の追及に時には拷問まで交えた厳しい詮議が行われると言われ、生きて出られたのは不幸中の幸いであったかもしれない。

 そして、天明四年も飢饉は諸国に及び、各地で打ち壊しが発生した。この時期、老中首座田沼意次の取った重商政策により、諸物価は値上がりし、取り分け米については一種の投機相場の帳合米商い(帳簿上での売買)により、今の時代のような富商による買占めや、売り惜しみが発生し、市民は難渋し、そして、騒動は幕府のお膝元江戸にも及んだ。

 数年続いた凶作(天明の大飢饉)で米価が高騰し、それに付け込んで暴利を貪ろうと、米商や金持ちが米を買い占めた事などが、江戸市民の怒りを買った。このときの模様を加賀藩の勤番藩士津田政隣(まさちか)が次のように記している。

 「天明七年四月上旬以来、江戸表米値段等所物以って高貴に相成り、五月廿日過ぎに至りては、金壱分に黒米三升(平年は二斗五升程)、その後売買差し支え江戸御屋敷詰人へは当分深川御蔵米にて御扶持方相渡り飢えに及び申さず候得共、御門外江戸中町人など及び諸家も大困窮、言語に述べ難き体たらくの由、かつ町方富家へは何者共知らず押し込み、家をこぼち(壊し)等狼藉に及び候儀、所々に之有り大騒動、かつ木綿旗に左の通り記し所々に之を建て置く」

 そして、その木綿旗には次のように記されていた。
「天下の大老中(田沼意次)をはじめ、町奉行共その外諸役人共に至る迄、米問屋へ一味致し賄賂を取り、関八州の民を悩まし、その罪によって斯くの如く押し寄せる。若し徒党の者一人にても召し取られ、罪に行うに於いては、大老中を初め町奉行所役人共生かして置く事これ無く候。
人数如何程にても差し出し申すべし。この儀厭い申す間敷き候。」

 このときの騒動は、天明七年五月廿日夕刻、赤坂・深川あたりで始まり、二十一日から二十四日まで江戸市中全域に広がった。

 「南は品川、北は千住、凡そ御府内四里四方のうち余す所なく米屋は申すに及ばず、金持ちの家々次々と打ち壊したり」

 この間、幕府はなんらの手も打たず、江戸の町は全くの無警察状態だった。町奉行が多数の与力同心を随えて鎮圧に出動したが、暴徒のものすごい勢いに圧倒され手も足も出せなかったと言う事である。

 二十四日になって、応急対策として大手門外に救済小屋を設け、騒動は漸く治まった。
 天明七年の全国で起きた騒動は五十三件、其の内、三十五件が五月に集中している。なお、この時の参加者は一説によると五千人とも言われている。

 この騒動の後、参加者の摘発が行われ、そのときの詮議の内容を示した「北町奉行吟味取調上申書」が残っており、その中の町人直次郎の詮議書に次のように書かれている。

 「去年五月二十一日夜、何方の者に候や、近辺米屋共打ち壊し候間、同意の者は出会い候様申し、家前を通り候に付き、米穀高値にて難儀致し、其の上米屋共米売り申さず候間、打ち壊し候はヾ、右響きにて下値に売り出し候儀も之有るべくやと、兼ねて存知居り候につき、右大勢へ引き続き参り、小日向水道町米屋仁兵衛方に候や。

 同人宅に凡そ四五十人程何方の者に候や集まり、建具道具など打ち壊し、店に積みこれ有り候米大豆往還へ持ち出し引き散らかし候に付き、右人数に加わり倶々(ともども)手伝い打ち壊し立ち噪ぎ候旨之を申し候。」

 この時北町奉行所が捕らえたもの三十七名、指名手配五名、最年長五十一才、最年少二十一才、平均三十三才で、殆どが妻子持ちであった。江戸出生者二十三名、地方出身者七名でその殆どが棒手振りといわれる、小商人であったと言われている。 

 天明八年三月「町々米屋其の外打ち壊し及び狼藉に及び候者申し渡し」が北町奉行所柳生主膳正久道によって行われた。

 その内容は、遠島一名、入墨の上重追放二十名、重敲きのうえ重追放一名、重追放一名、重敲きの上中追放十一名、敲きの上江戸払い、入墨の上家主預かり一名、敲き一名、外に病死したもの七名であった。

 極刑である死罪はなかったが、病死七名は、厳しい詮議の中での拷問による死であったのかも知れない。また、判決理由「御府内と申す、公儀を恐れず仕方不届き」であるとなっている。

 江戸時代、「百姓は生かさず殺さず」といわれているが、一旦、怒りが爆発したら、いかなる大名でも手のつけられないものになった。こうした大規模の騒動を統一的に組織し指導した者はいないが、集団行動はそれぞれの場に置いて、非常に規律あるものであったと言われている。

 最近、アメリカのサブプライムローンが端緒となって、世界的な金融不安を惹き起こしている。その影響を受けて、日本でも押しも押されに優良会社のトヨタ自動車がいち早く契約社員の整理を行うと聞いている。

 昭和三十年代から四十年代にかけて、トヨタ自動車の総帥として活躍された石田退蔵氏が引退されるとき、「三年ぐらいは何もしなくとも食っていけるだけの金は残した」といわれたが、トヨタ銀行といわれる現在のトヨタ自動車はその頃の比ではない。

 自動車と言うのは、末広がりに一次・二次・三次と関連企業が広がっているが、本家本元のトヨタ自動車のこの動きは、今後関連企業への影響は計り知れないものがある。

 取り分け、ウスバカゲロウの羽根のように薄い利幅で操業度の維持が唯一経営保持の絶対要件であった下請け会社にとって、その生命線とも言われる高操業度が崩れたと言う事は、単なる人員削減などで立て直せるものではない。

 更に、計り知れないほどの内部留保の陰で、整理の対象と成る契約社員は、明日の生活を維持する蓄えもない中で、どうして生きてゆけというのか。

 「生かさず殺さず」の徹底した合理化が、今更痩せ犬の遠吠えをしたところで仕方もないが、かつての百姓一揆ならぬ、サラリーマン一揆に発展しないかと憂うるのである。(09.05仏法僧)