サイバー老人ホーム

262.騒 動3

 もっとも、いきり立った暴徒に手向かったりしたら、とんでもない事になる。この、「天明騒動」から83年後の慶応三年、同じく上田領六万石に藩始まって以来と言う大規模な騒動が持ち上がった。

 発端は、徳川幕府に変わって、錦の御旗を掲げた新政府移行に伴うたび重なる戦費を確保するために、時の藩主松平伊賀守忠(ただ)礼(なり)は、五万両にも及ぶ戦費を御用金として領民に課した。これに怒った領民が、大挙して一揆を起こし、瞬く間に上田領全域に広がった。

 暴徒は、上田城下まで押し出し、あちこちに火をつけ、暴れまわった。この時、運悪く、家中藩士が度々酒食をとる梅本と言う料理茶屋があり、ここへこの日たまたま来ていた沼田武八と言う侍が珍味を出させ、諸食をとって酔っ払っているところへ、百姓たちが押し寄せたのである。

 武八殿はそんなことは露とも知らず、「我一人にて押し留め、日頃武勇を顕さんと大小手挟み、すぐさま町中へ駆け出し、大手を広げ真っ先の者共に、『うぬら虫同然の身を以って、騒動を企て斯く為す事は不届き至極の悪人共、某(それがし)の言葉を守り早速に引き取りに候はヾその分に免ずべし、さもなくば、某に敵対いたし違背の及び候はヾ一人も残らず切り捨てん』」と大音声で怒鳴った。

 これを聞いた百姓達は、「虫に喩(たと)えし雑言聞き捨て成らぬ。百姓どもの手並み見せん。覚悟と言うより早く、彼の侍を中に取り込み、大小・袴は申すに及ばず残らず剥ぎ取り、張り返し、蹴返し散々に打擲して半死半生に致し、古は牛捌(さば)きと言う大刑有しか、此の者こそは人捌きと言う珍刑を以って、死罪に行い参らせんと言うより早く、諸手諸足を以って数百人にて力任せに引っ張れば、何の苦もなく股より首まで物の見事に引き捌かれり」と「上田騒動右物語」に記されている。

 一方、「天明騒動」の方は、上田領に入ってからは、さすがに上田領六万石の城下であり、加えて暴徒の連携も崩れてきたのであろう。

 「上田殿様より御取り方鈴木甚五右衛門様、内藤弁之進様、今井、佐藤様御組下御役人百五十人、町より大勢出られ五十三人召捕られ牢へ入れ置かれ、真田川橋場にて三人切り殺し、大屋の橋にて大勢切殺し川へ流させしといえ共、是は掟と知れず」

 この時代、水死人はそのまま川に押し流しても構え無し」と言われており、この事を拡大解釈したのだろう。

 更に「同日小諸殿様六十人御召捕り入牢仰せ付けられ、松城(松代)の殿様にても御家中町共に大勢御出し町の入口御囲(おかた)め成られ候との事なり」

 平賀役所は、信州きっての雄藩松本藩六万石にも加勢を頼んだのだろう。「七日の昼時平賀御役所御囲として松本殿様より物頭板倉藤蔵様御組下百八人、駒井彦左衛門様御組下百八人、都合二百十六人陣笠をかむり様御出成られ候。

 荷物の儀、鉄砲一駄、玉薬一駄、梓弓一駄、鎖帷子(かたびら)同鉢巻二駄、軍用諸道具六駄、ほしい(干飯)一駄、白米四駄、都合十六駄御持参成られ、御両人は陣屋へ御入り成られ、其の外御役下は百姓の家四軒に陣幕を張り、御陣屋を御囲み成られ候也」と書かれている。

 ここまでの大騒動に発展し、幕府も無視できなくなったのだろう。「十月十一日に江戸御奉行所より牧野大隈守様御下役人十五人、北渕甲斐守様御下役人十五人御出で遊ばされ、追分宿、岩村田宿に成られ、御座近くの者を御雇成られ、村々手分けにて案内仰せ付けられ、御召捕り成られ候。」

 そして、いっせいに騒動参加者の探索を開始した。その結果、「人数三十人、小諸殿様御預り、四十四人岩村田殿様御預り、二十人平賀御役所御預り、十四人田野口御役所御預り、三十五人安中殿様御預り、惣人数百二十三人牢へ入れ置かれ、二十七八日の頃より御吟味始まり、十一月中旬頃まで御詮に議成られ、軽き罪の者は其の村方へ御預け置かれ、其の余は江戸へ遣られ候」

 そして、「平賀御預り二十人の内、拾人は入牢、拾人は村の定め夫の家に置き、昼夜番人三十人宛て近村より番を致し候。

 松本御役人様方昼夜に六七度づつ御廻り成られ候、盗賊共御引払い成られ候得は、御役人様方残らず松本へ御帰り成られ也」と言う事で、我が国始まって以来の大騒動も終結した。

 そもそも、この騒動の発端は、浅間山大爆発によって引き起こされた大凶作であり、「当秋(明き)田方の儀、何十ヵ年にも之無き大違いにて青立ち皆無に相成り、当国里地村々は一二分より四五分迄取り相成り、飢人大分出来し、御役所より御見届けに度々御出で成られ候処に、二十ヶ村飢人大勢之有り。

 御助け米度々下され、其の上右の村々の内、穀物沢山かこえ(囲い)候百姓は御詮議の上、其の家々の家内扶持分を残し、其の余は村方割り掛け成られ候。

 又は十二月末迄に三度に拝借金三百八十匁(約九十両)下し置かれ飢命に及申さず候様に遊ばされ下されとの事なり」と書かれており、その方法には異論があるが、それなりの効果はあったと言う事で、我が故郷の百姓たちとっても貴重な体験であった。

 ただ、この騒動にかかわった者の詮議が我が故郷にも及んでいた。年号は分からないが、書かれた内容から天明四年六月十一日に、馬流村(現小海町)に百姓幸八と名主、組頭に対して次のような文書が近村三カ村の回状としてもたらされた。

 「右は去る十月百姓騒動の節、小諸で召捕られ候者の内、馬流村幸八倅兵衛(幸吉)と之有りと申す者、此の度、御影御手代田中祐助、松田丹後方彼の地へ書状仰せ付けられに付き、其の村幸八並びに三役人印判持ちて小諸へ罷り越し、御手代中の旅宿へ相届けべく候。尤も急ぎ御用に候間、書付相達し次第昼夜に拘らず罷り出べく候。追ってこの書付相返すべくもの也」

 即ち、去る天明三年の騒動に兵衛と申す者が、幕臣私領に置いて捕えられたのだろう。この者の取り扱いについて詮議したいので、この書状が達したなら昼夜に拘らず罷り出るようにと言う強いお達しである。

 ただ、この書状が回されたのが、天明騒動から半年以上もたってからであり、更に、是から一年以上もたった天明五年七月二十九日になって、幸吉の次のようなお裁きが確定している。
「信州佐久郡馬流村 百姓幸八倅幸吉
 敲きの上江戸払い
 御障り場所   品川、千住、四谷大木戸並びに深川
 但し、出所信州佐久郡馬流村
 右の場所徘徊はべからず也」
 この御仕置が出て間もなく、幸吉の親、および親類が連署で村に誓約書を提出している。
(09.05仏法僧)