サイバー老人ホーム

261.騒 動2

 この頃に成ると、見物人が大勢村々から集まり、騒動の者と入り交じり、「右人数と一つに集まり騒動いたし、其の節の人数二千人余と相成り、原村に入れば既に「御炊出し所」と表札掲げられたり。これ井幹屋九郎右衛門の家なり。

 九郎右衛門は一揆の先触れの来るや、隣家十二戸を頼み白米十五俵の口を解き、大釜にて炊き出しをなし、頽(くず)れ来る暴徒を懇切に接待せしかば、流石の暴徒も謝意を表し、首領様の者「井幹屋へは一切手出し無用」と下知をなし、直ちに野沢村に乱流せり」暴徒も人の子、人の弱みに付け込んだのだろう。

 「野沢村にては先ず隅屋甚五右衛門方に押し寄せ、斧掛矢を揮(ふる)いて柱を切断し、苧(お)綱(つな)(麻縄)をかけ引き倒し、茶俵、繭等手に任せて街路に撒き散らす等、散々の乱暴を極める。

 次ぎて藤屋庄兵衛、和泉屋野左衛門の二家を破壊し、簗場七左衛門の家に迫りしに、七左衛門予め此の事あるを知り、一切の家財を隠しければ、彼らは破壊すべき一物をも見出す能(あた)わず、大いに之を探し、金台寺に隠匿しあるを探知せしかば、忽ち金台寺を包囲し、土蔵に在りし秘蔵品を悉く破壊す。

 次に酒屋甚右衛門を包囲せしが、甚右衛門中庭に大桶を備え、之に酒を湛え任意に鯨飲せしめしかば、一揆等はこの歓待により「時節柄造酒は禁ぜられておるから囲い置きの米穀はあるまい」と同情の捨辞を残して立ち去れり。

 野沢にては以上の外に大坂屋という商家は破壊せられしのみならず金子五十両を強奪せられしと言う。」

 この五十両強奪については、「騒動覚書」と「天明騒動」の両方の記録に残されている。そのほか手当たり次第の狼藉を働き、「小宮山村の三郎左衛門より金三千両を強奪し、三日の夕刻下県村に向かい殺到せり。」

 この小宮山村(現佐久市)と言うのは、信州南佐久郡西北に位置し、蓼科山山麓を境に諏訪郡と接している。この山村に三千両もの金を持った分限者がいたかどうか不明であるが、佐久平を代表する穀倉地帯ではあった。

 ただ、一揆とは、日本において何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすることで、既成の支配体制に対する武力行使を含む抵抗運動であった。

 従って、下は庶民から上は大名クラスの領主達に至るまで、ほとんど全ての階層が、自ら同等な階層の者と考える者同士で一揆契約(同意を含む)を結ぶことにより、自らの権利行使の基礎を確保していたと言われており、正に一揆こそが社会秩序であったと言われている。

 そのため、一揆に臨んでは私的な略奪や、無益な殺傷は厳しく禁じられており、そのかぎりで見ると、この騒動は発端はさておき、一揆の形態はとられておらず、単なる暴徒の集合であったのかも知れない。

 村民の中には要領の良いのもいて、「下県村の素封家木内善兵衛は予め野沢付近の様子を聞き、村境まで人を派して一揆を迎え、炊出し既に整うの旨を告げ、また万一を慮り金三百両を箪笥に納め、その他の財宝は窖蔵(あなぐら)に納め、待ち構えたり。

 既にして一揆の群集入り来たり狼藉を極め、遂に財物を窖蔵(あなぐら)に発見し、之を奪い同家の温袍(どてら)で羽織り、小袖を着換えなどして、狂乱を極め、夫より平吉、惣吉、佐平太の三家を破壊せり。」、しかし小賢しい蓄財なども見逃していない。

 「かくして十月三日の夜も深更に至りてれば、一揆等は更に進みて牧野遠江守の領分(小諸藩)なる北佐久郡御馬寄村に向かいしが、提燈松明の光は蜿蜒(えんえん)として一里に亘り、宛(あたか)も百鬼夜行の状を演ぜり。

 始め一揆等が十月二日軽井沢へ乱入せしより僅々二日の間に於いて以上述ぶるし如きの狼藉をなし、其の通過する所疾風の如く、佐久公私領ともに警戒の準備に遑(いとま)あらざりき。」

 暴徒は、十月三日の夜更けには小諸領牧野遠江守一万五千石の領地北佐久郡御馬寄村(旧浅科村、現佐久市)に進出した。

 更に、「四日には昼八つ時に右の大勢小諸へ行き、穀屋二軒を焼き出しを致させ、四日の晩八つ時布乃下へ行き、六軒潰し、五軒焼き払い、夜七つ時傳川にて一軒潰し、村半分焼き払い、夫より千曲川渡る。」
更に、五日には隣の松平伊賀守忠済(ただまさ)六万石上田領に入り、「五日の朝田中宿(現上田市)二軒潰し、昼四つ時海野宿(現東御市)にて二軒潰し」と手当たり次第に襲い掛かり、「是迄二十八軒潰し、都合八十一軒潰し」と言う状況であった。

 ただ、ここに来て漸く各役所が重い腰を上げた。この当時、佐久一円は天領と、私領が入組み、藩と言っても小諸藩一万五千石の小藩であり、とても怒り狂った一揆の暴徒を抑える力はなかったのだろう。

 「五日の昼時平賀村(現佐久市)へまた同じ押し寄せ参り候由聞へ、御役所より加勢致し候様に村々に御触状を以って御触れ成られ、鉄砲、鑓、棒、鎌を持ち罷り越候様との事。

 村々より大勢御役所へ欠け付け(駆けつけ)、鉄砲、鑓持ち候者は御役所の廣通に扣(ひかえ)、御奉行三太夫様にも支度陣立てにて、其の外諸役人中も陣立てにて鉄砲、鑓、長刀、弓矢大分御出し、人足に致させ高提(ちょう)燈(ちん)立て並べ、其の外の大勢の者共は頭の髪の結い際へ白き紙を印しに結い付け道筋へ御出し成られ候」と物々しい。

 この平賀御役所とは、我が故郷など、この辺り一帯の天領の支配所である陣屋の事で、陣屋は勘定奉行支配下にあり、江戸に常駐する代官の下に、元締、支配、複数の手代とその手下が年貢の徴収を主たる職務として、村々を巡回していた。従って、大規模な暴動を鎮めるだけの物は持ち合わせていなかったのだろう。(09.04仏法僧)