サイバー老人ホーム

260.騒動1

 昔から各地で農民による騒動が繰り返されてきた事は良く知られた事である。この騒動と言うのは、「世間を騒がせるような大きなもめごと」であり、一方、暴動とは徒党を組んで社会秩序を乱すような行動をとることで、明治期に作られた語であると言う事である。

 私の記憶では、昭和三十年代か、四十年代初め掛けて行われた安保闘争などが、この国における最後の騒動だったのかもしれない。

 ところで、江戸時代は前期から中期にかけて、各地に新田開発が進められ、加えて天候も正徳時代(1711−1715)以前は比較的安定していて比較的豊かな時代であった。

 ただ、この時代でも各地で騒動が持ち上がったが、天明の頃までは、その主な動機は幕府や領主の苛政よるもので、これを打破する為のものが主であった。

 この頃から、幕府も、各藩も財政が窮乏化してきて、とりわけ明和九年(安永元年・1772)は、メイワク年ともいわれ、幕府が発布するさまざまな経済政策が、市民を大いに苦しめる事になった。

 そして、天明三年(1783)、浅間山が大爆発を起こし、関東一円に火山灰を降らせた事から、未曾有の大飢饉となり、この辺りから国をも揺れ動かす騒動が持ち上がっている。

 我が故郷に、「信州浅間山大焼凶年にて佐久郡騒動覚書(以下騒動覚書)」という片折り紙三十四ページにも成る記録が残されていた。これ以外にも大正八年に編纂された「南佐久郡志」の中に「天明騒動」と言う記録もある。

 まず、「騒動覚書」によると、「天明三年六月二十四日頃より、浅間山焼出し日毎に強く鳴り渡り、七月二三日の頃大焼け大鳴り、家々の戸障子殊の外に揺れ、夜に入り焼け登り候。

 黒煙の内より虚空に火もえ上がり朝方湯の平へ石砂大分ふり、前掛けの山燈石降りころころと転び、前火斗りになる」と一大騒動が持ち上がった。

 「八日の晩方より少々ゆれ静まり、夫より上州吾妻郡利根川の川上、浅間の北方より長さ十二間、横八九間、高さ二三丈の大石、十七里余り流れ出し、百姓家五十八カ村押し流し、上州五鈴村より二三里下、死人沢山出来し、其の外川筋へ死人大分かかり之有り候との事」と驚天動地の異変が起こった。

 「輕井沢宿は大石小石砂まじり三尺より四尺余り降りつもり、沓掛は五六寸砂ばかり降り、追分は砂少々降り、日影通りは砂少々降り、碓氷の権現様の村は大石小石計り五尺より六尺余り降り重なる。

 家数十軒潰し、峠の北の方善光寺新道通りの間、並びに合間迄石砂二尺計り降り、夫より又北の方、借宿御関所大戸御関所辺りは一尺計り降り積もり、輕井沢坂本大戸の間横三里余り、長さ六七里の間山林の大木小木共に枝押し倒し残らず枯れ木に相成る。

 碓氷峠人馬通路之無く、妙義、高崎、榛名辺りは砂四五寸降り、武州八王子、江戸惣家(草加)辺りは寺にも降り、浅間の鳴り音は一円二三十里四方へ聞こえ候との事也」と言う状況で、今でも
この一帯の土地を掘ると、当時の惨状の跡が伺える。

 そしてこの年は、浅間山の降灰により、この地方一円が未曾有の大凶作となり、九月に入ると騒動が持ち上がった。

 「天明騒動」によると、「天明三年九月十八日の夜、上州一ノ宮北方、人見ケ原に何人(なにひと)の高札を立て、「此の節至って米価高値に相成り、末々の者難儀至極に付き、下仁田、本宿両村の穀屋(米屋)を打潰し、続いて信州穀物囲い置き処(御蔵)の富人、並びに買置きの者共を打ち潰し米価豊かに仕るべく候以上」と記されたり。

 これ即ち此の騒動の導火線なり。而して此の騒動の由来は人民、連年の凶歉(きょうけん)(著しく不作)に苦しめる際、此の年七月浅間山の大噴火ありて、上州地方は特に其の惨害を被りしより、遂に無智の百姓等徒党を組み、暴力を逞(たくま)ふするにいたりしなり。

 初め、立て札の風聞、農民の口に依りて四方に喧伝せらるるや界隈次第に騒がしく、同月二十八日黄昏、妙義山麓の二本松付近に集会せる烏合の一団あり。

 其の首謀者何処の誰たるを知らざるも、其の指揮者より近村に向い「相談の趣きあるにより是非共出席を煩わす、万一出席之無き村々へは早速火を放ち焼き払うべし」との脅迫文を貼り札し、為に此の集会を生ぜしなり。而して此の烏合(うごう)団へ首謀者等馳せ参じ、群集を煽動せしかば一同忽ち付和雷同し、鬨(とき)の声を発して磯辺宿に押し寄せたり。これ即ち騒動の発端なり」となった。

 そして「此の騒動は同年十月六日まで続きしか、信州に進入せしは十月二日にして、渠等(首謀者)は此の日未明横河の関所を破り、勢いに乗じて碓井(峠)の峻嶺を越え、総勢二百七十人軽井沢に乱入し、口々に叫びて曰く「米があったら炊き出しをしろ」「若い者は一揆の仲間になれ」「言う事を聞かないと焼き払うぞ」と、斯くして騒動は南北佐久および小県に波及せり。」

 そして「同年十月二日より騒動始まり人の家を押し潰し、衣類諸道具残らず取り出し踏み潰し引裂き捨て、先ず一番に沓掛にて一軒潰し、其の節は人数に百人程相見え、夫より追分へ行き、問屋へ鳴込、村々先へ麻帯又は衣類を引裂き結び付け、是を梵天(頭取の標識)と号し、問屋に持たせ町中を加勢に付け、小田井宿へ行き鳴り騒ぎ、村中を加勢に付け、岩村田へ昼時行き、人数六百人と相見へ加勢出よと叫び、さもこれ無くに於いては村中残らず焼き払い申すべく等と騒ぐ。

 梵天を立て並べ大鞁(だいこ)たたき、ほら貝を吹き立て、吹き立て時の声を上げ岩村田を六軒潰し、酒屋へ鳴り込み、酒を大番切りの桶へ入れ、通へ持ち出しおや椀にて呑む。

 町中の商人の家毎へ押し込み、草履・草鞋なとは外へ投げ出し灯篭蝋燭いろいろの物を持ち出し、鳴り騒ぎに於いては、恐ろしくなり、加勢を出し、其の外見物なども出掛け大勢になる。

 当時一揆の群集は皆顔に煤を塗りて面相を変じ、身に襤(ぼろ)褄(つま)を纏い、手に斧、懸け矢等の凶器を携え、引裂き紙の纏を真っ先に立て、首領様(よう)の者全体を指揮し、鯨波(ときのこえ)をあげて戸板を叩き、法螺を鳴らす。

 而して十月二日午後岩村田(現佐久市)に至り、散々に狼藉を極め、志賀に出て、翌黎明南佐久内山村(現佐久市)に乱入せり。人数は途次脅迫に依りて参加せしもの多く、昼迄人数千人余りに相成り、(行く手で、次々に襲いかかり)、昼の四つ時平賀にて三軒潰し、其れより又左衛門に燈出しを致させ、昼九つ時下中込へ行き四軒潰し、焼出し、一間に致させ、是まで家数弐拾軒潰す。」

 暴徒は、信州佐久平中心、野沢(現佐久市野沢町)辺りに進出し、手当たり次第に打ち壊しの狼藉を働いた。(09.04仏法僧)