サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

173.素 質

 シアトル・マリナースのイチロー選手がとうとう伝説の頂点に立った。近頃、内も外も鬱陶しいニュースの多い中で先のオリンピックに次いでパラリンピックと、これほどの快報はない。

 それにしてもこのイチロー選手はすごい。すごいと言うよりは正に驚異である。80年以上にわたって破られなかった記録と言うのは、行き着くところまで行き着いた近代野球ではもはや達成不可能な記録ではないかと思っていた。今後この記録を破るとしたらイチロー自身以外には出てこないのではなかろうか。

 イチロー選手を評して「持って生まれた素質に恵まれた天才的名選手」などという声が聞こえそうであるが、いかなる素質があろうとも努力なくして達成は不可能だろう。

 老孟司さんによると人間の脳と言うのは「沢山の細胞からいろんな刺激を受け、その刺激の総和をとって、刺激を受けた神経細胞がシナプスを介して反応する。シナプスとは神経細胞と神経細胞の間の接続部分であり、一つの神経細胞に1000から1万のシナプスがあり」これをニューラルネットと言うことである。

 ところがイチロー選手のような「天才の脳はおそらくシナプスをすっ飛ばし、知覚系の神経細胞から情報が入って、それが運動系の細胞に伝わるまでの間に沢山のシナプス経由すればするほど遅れるので、いくつかのシナプスを途中で省略している」と言うのである。

 つまり普通の人であれば様々な状況を想定し、過去の記憶とも照合してこれならばと思う方法で手足が反応するのであるが、イチロー選手はこの過程のいくつかを省略して反応すると言うことである。そうでなければ僅か0.何秒の間にあれだけ多様な変化に対応できるはずはないということで私も同感である。

 世の中にはイチロー選手のような大天才もいるが、今度のパラリンピックを見ていて人間の能力と言うとは一体何であるかとつくづく考えさせられた。
 片手片足を失った人が3メートルを越える走り幅跳びをしたり、両足を失った人が100メートルを11秒そこそこ走る能力はどこから来たのであろうか。

 人間誰しも何らかの能力を持って生まれてきているが、その能力を発揮するか否かは本人の意志次第ではなかろうか。しからばこの能力と言うのは何かと言うと「物事を成し遂げることのできる力」と言うことで、本能に根ざすものは教えなくとも身についているが、それ以外は努力が必要である。

 取り分け成し遂げるものが高い場合はその高みにしたがって払うべき努力も大きくなる。ただ、イチロー選手のような並外れた高さのものは別にして、成し遂げたいという意志を持つことで大方のものは常人でも成し遂げるのではないかっと思ってきた。

 その根拠が今度のパラリンピックである。多分、あの選手たちも一度ならず身の不幸を嘆き悲しんだことがあるに違いない。それなのにあの輝きを取り戻したのは何であったか、それは失うことがなかった意志の強さであろう。

 ある車椅子の陸上選手が「障害者スポーツと言うのは素質とか体力などは関係ない、やろうという気持ちがあれば誰でも出来る」と言っていたが、事実握力などほとんどない選手が金メダルに輝いている。

 あのパラリンピックの選手たちは、先天的に障害を持って生まれてきた方もおられるが、事故や病気で体の一部や機能を失った方も多い。この方たちが生まれながらにして手足を失ったときの才能や運動能力を身につけていたとは考えられない。

 それでは素質と言うのは何かというと「持って生まれた性質」とか「将来あるものになるのに必要な能力や性質」ということで、これらはいずれもパラリンピックの選手には当てはまらない。

 最近、リハビリのために通院している病院でも若い脳卒中障害者が増えている。戦後大きく変わった日本人の食生活が影響されていると言われているが、残念なことには今度のパラリンピックでも、脳卒中障害者は見られなかったような気がする。

 私を含めた脳卒中障害者は、手足の動きには支障があるとしても、リハビリを通じて完全とはいえないまでも将来に回復の希望があるはずで、体の一部を失ったり機能を失った人より恵まれた状態にあると言える。それなのにパラリンピックに挑戦するような人が見えないと言うことは一体何故だろう。

 その意味からも、先のアテネオリンピックで長島さんが長島ジャパンの指揮を執られることを期待したが健康管理の都合から参加できなかったことは返す返すも残念だった。ただ、最近新聞紙上で復帰された姿を見たが、「大またで」歩いておられたと言うことで、なんともうれしい限りである。

 発症時の状況は私の場合よりかなり深刻で回復が危ぶまれたが、僅か半年のリハビリで「大また」で歩ける回復は驚異である。大またに歩けるということは両足への体重移動のバランスがそれだけ取れていると言うことで、いかに今までのリハビリに熱心に取り組み、同時に長島さんの回復意志の強かったかを示すものである。

 ところで、私の趣味の一つに油絵があり、これについてはこの雑言「幻のメダル」にも取り上げたが、その実力のほどはご覧のとおりである。かつては極端な右利きであり、その頼りの右手が使えなくなってから、今度は左手で画き始めてその作品はこのサイト「熟年画廊」に掲載している。

 昨年から「幻のメダル」にあるT市美術展に再び挑戦したがあっさり落選、今年再び挑戦したところ今度は入選した。もともと日曜画家の作品を展示ようなもので、それほど自慢することでもないが、今でも左手で文字を書いたら幼稚園の孫と同じで、いささかの素質もない左手が絵については人並み程度にこぎつけたのは素直に喜びたい。

 人の能力などと言うものは、人並み程度のことであれば成し遂げたたいと言う意志と僅かな努力があれば達成できるのではないか。今度のパラリンピックで6個の金メダルを獲得した水泳の成田真由美選手が「何もしなければ何も始まらない」といわれた言葉にいかにも重みを感ずる。(04.10仏法僧)