サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

103.お〜い信州人!

 NHKbsの番組で「おーい日本!」というのがある。各県ごとの様々な風物を紹介する番組であるが、10月の始めに「とことん長野県」の特集があった。前の週一週間をかけて長野県に関する過去の番組の再放送もあって懐かしく、可笑しく、そして奇妙に納得した一週間であったのである。

 長野県人を指して理屈好き、お茶好き、ゲテモノ食い、信心嫌いなどいろいろの風評があるが、長野を離れて四十余年が経ったところで改めて我が故郷信州を考えてみた。

 そもそも、日本には58の都道府県があるが、昔の国名(即ち信濃の国(信州を含め))を長野県ほど多く使う都道府県も少ないのではないだろうか。鹿児島県や山口県なども多く使われるが、使われるケースが限られているように思うが、こと信州に関しては生活のあらゆる場に使われている。その最たるものは購読者の多い地方新聞の名前にも使われており、更には国立大学で古い国名を使っているのは琉球大学と信州大学だけである。更に、これはかなり全国的に知られるようになった県歌「信濃の国」など県内いたるところで使われている。

 何故これほど古い国名に拘るかと言えば、信州は万葉の時代から信濃の国であり、その後廃藩置県の際も他府県のように幾つかの国が集まったわけでもなく、その領域は変わっていないことにもよると思われるが、それならば信州以外にもありそうである。

 ただ幕藩体制では小国の寄せ集めで、この面ではむしろモザイク状ということができる。それならば何故未だに古い国名に拘るかと言えば廃藩置県の際に長野県と言う名称に定めた事にあったと考えている。信州の文化を支えたのは宗教都市長野文化圏と城郭都市松本文化圏が双璧となって支えてきたが、これが一方に与した長野県になったことから松本側に対する配慮か、松本文化圏が受け入れ難かったかのどちらかではないかと考えている。

 信州人の理屈好きは昔から有名で、一説には理屈好きな人間が高い山を目指して集まった結果、などといわれるがそうではない。信州には昔から中山道、甲州街道、北国街道と言う主要な道路が交錯していて、様々な文化も交錯していて、早くから情報社会であったことが信州人の理屈好きの始まりではないかと思っている。

 更に、中世において信州は群雄割拠と言えば聞こえ通いが小国の乱立とそれに天領が入り混じって文字通りの草刈場だったのである。それに加えて信州を取り巻く美濃の斎藤、尾張の織田、三河の徳川、遠江の今川、甲斐の武田、越後の上杉という列強に囲まれ、これらの強国の盛衰に常に翻弄されてきたのである。

 その結果、今日の勝者は明日の敗者の悲哀をいく度かかこつことになり、うかつに為政者の命と言えども従えない事情があったのである。従って、たとえ敗れたとしても一族の安全を確保する手立てを考えねばならなかったのである。然らばどうするかと言えば、常に為政者に対して一定の距離を置いたのではないかと思っている。戦国の世でそんな優柔不断なことができるかと思われるが、そのためには一にも二にも欺かず、争わず、誠実に生きることがその術であったことが信州人気質を培ったと勝手に思っている。

 信州人には体制に無定見に従うことを快しとしない気風がある。信州が長い間革新県と言われるのはそのあたりで、時の執政に一定の距離をおく信州人の特性だと思っている。だからといってなんでもかんでも反対するのではなく、「一言申し述べる」権利を保留した信州人的良識の示し方ではないかとこれも勝手に思っている。かつて日教組を揺るがした勤務評定につき、いち早く受け入れを決めたのは他ならない信濃教育会で、大義を持って本分とする信州人の面目躍如たる所以であり、謹厳実直とか理屈好きと言うのはこのあたりにも現れている。

 信州の方言で好きな方言では夕方の挨拶で「お疲れ(い)でやす」というのがある。夕闇の迫った村道でことさら丁寧に頭を下げ合って挨拶を交わす姿はその日の労働の厳しさを忘れさせる人々のぬくもりがあり、私も現役当時でも好んで使っていた。

 また、語源から考えると古語辞典に出てくるいささか農民言葉には似つかわしくない言葉があった。物を修理することを「はそんする」といい、本来の意味とは正反対で、子供の頃は破損した衣服を母親が何度も「はそん」に「はそん」を重ねたものを着ていたものである。
 従って、華美を好む若者に対して「ごうしゃもん(豪奢者)!」などと戒められ、下らない事にうつつを抜かすことなど「らっちもねえ(埒もない)」と叱られ、ましてや今時の若者のように男が化粧するなど「しょうしい(笑止い=恥ずかしい)」ことであった。
 更に、授業をサボるなど自分のためにならないことは「げいむねえ(芸もない=つまらない)」話であって、その上登校拒否となると「でほうでもねえ(出放題でもない=とんでもない)」ことだったのである。このあたりが謹厳実直な信州人の気風となっているのかもしれない。

 中でも「おーい日本!」でも取り上げられた「ズク」というのが最も信州的方言かもしれない。「ズク」とはやる気とか能力とか場合によっては奉仕精神などそのときのシチュエーションでかなり幅広く使われていた。
 「ズクを出せ!」という言葉はこれらを出すように言われるのであるが、逆に「ズクなし!」は、こうした能力のないことで、ツルなしインゲンを「ズクなし」と呼んでいたように、少なくとも「ズクなし!」と呼ばれるような人間にはなりたくないと言うのが小さい頃からの心意気でもあったのである。

 信州は日本でも最も失業率の低い県だと聞いたことがある。これは何も信州だけに元気な企業が集まったわけではない。「おーい日本!」でも紹介されたが、未だに旧態依然とした生糸の製糸工場が頑張っている。これなども取り分け際立った製品を造っているわけでもなく、飛びぬけた経営手法がとられているわけでもない。しいて言うなら従業員が高齢者によって構成されていると言うことであるが、信州には経営者であれ従業員であれ共通の意識があると思うのである。
 即ち企業とは、拡大することよりも継続することに意義があり、そのために労使共々が「ズク」を出し合って、「せっこうよく(節行=きちん)」働いた結果であって、他府県とは異なる経済システムが存在するのではないかと勝手に思っている。

 もともと信州というのは貧乏県であった。私のいた頃の信州といえば養蚕が主要な現金収入の道であり、夏は「よっぴてい(夜っぴとい=一晩中)」働くが、冬枯れの桑畑の寒々とした光景は信州の原風景であり今でも目に焼き付いている。

 ところが最近はこの桑畑がなくなったことで信州の風景が一変し、それとともに観光開発や、企業誘致が行われ、私の心の中にある信州のイメージが根底から変わってしまったようである。
 このことは取り分け悪いことではないが、かつて華美を戒め、謹厳実直を旨とした信州人を形づくっていた方言が姿を消すと共に、最近の高校野球で、無闇に「昆虫顔」の目立つ我が信州球児を見るにつけ、ここらで一発「ごう奢者!」と「喝ッ!」を入れたい気もするが、やはり時代は変わったと言うことだろうか。(02.11仏法僧)