サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

175.色即是空

 私が参加しているある文学系ML(メーリングリスト)で、某プロ作家N氏から「私はエッセイって、どこが面白いんだか、さっぱり分かりません」と言う書き込みがあった。
 まだ、N氏の作品は読んだ事は無いが、時々書き込まれる内容によって、現役作家の生活の一端が垣間見えるようで面白い。

 ところで、エッセイとは、「形式にとらわれず,個人的観点から物事を論じた散文」、または、「意の趣くままに感想・見聞などをまとめた文章」と言う事だが、このサイト「孤老雑言」も、私にとってはまさにこの通りであるが、もう一つの狙いがある。

 それは、「孤老雑言」に掲載する作品は、私にとっては一種のゲロ(嘔吐)なのである。毎回、ご覧になっていただいている方に対して、ゲロとはいかにも失礼な話であるが、言うなれば私の心に残ったしこりを吐き出していると言う事である。

 人間誰しも何かに対するこだわりと言うものを持っていて、それだからこそ生きる目的なり目標がでてくるのかもしれない。ただ、歳をとるに従い、そのこだわりが凝り固まってくるようで、それが老人の頑固さにつながっているように思っている。

 「孤老雑言」の冒頭に、「独断と偏見」を意にも介さず、としているが、決して意にも介していないわけではない。「独断と偏見」とは、自分の考えの中に、他人の意見などを取り入れようとしない頑なな心で、文章にして公の前に晒す事によって、「独断と偏見」ではなくなったと勝手に解釈している。

 しからば、誰がそれに対して意見なり何かのアクションをとるかと言えば、残念ながら誰もいない。それと言うのも、「孤老雑言」がより多くの人が関心を持ってもらうほどのものではないことが根本にあるが、それが勝手に解釈している由縁でもある。

 それならば、やっぱり「独断と偏見」ではないかと言う声が聞こえてくるが、そうではない。少なくとも、これを書くときは私の考えが読む人にとって受け入れられるか、どうかということは意識する。その受け入れられるかどうかには肯定は勿論入るが、同時に否定も含まれる事になる。

 ただ、否定が多くなれば、当然のことながら、「何だ、こんなもの」と言う事になり、やがて見向きにもされないことになる。

 同じMLで、N氏の書き込みに対して、幾つかの反応があった。その中で、誰かの発言で、「面白いエッセイだって無いとは言わないけれど、基本的にエッセイが売れるのは有名人が書いたからだそうです」という書き込みがあった。

 成る程、書店を覗いてみると、エッセイと名がつくものは話題性のある人の書いたものばかりで、作品より人で選ばれているらしい。事実、出版社の何とか文学賞などでも、エッセイについては殆ど「該当作品なし」である。

 ところで、これもMLから知った事であるが、今の出版界というのは、あらかじめ、編集者が書く内容を示して、これに基づいて作家が執筆するという事らしい。即ち、あらかじめ売れ筋と言うものを決めて、それに基づいて製作するという事らしく、その枠の中で執筆者が決められ、本として出版する様々なプロセスを踏むものらしい。

 言うなれば、「編集者の要求する「波長の合う読者」の人数が、一定水準を超えていなければ、版元負担で原稿は出してもらえない」と言うことである。その例として、貨物列車の時刻表が五万部発行され、即日完売になったという事である。

 確かに、売れ筋と言うのは出版業界にとって死活問題であり、これを無視したら経営が成り立たないのも事実である。しかし、本が売れなくなったといわれて久しいが、こうして売れ筋を追求する事だけで、日本人の本離れを抑えることができるはずも無く、寧ろ益々加速させているのではなかろうか。

 私のサイトが立ち上がってから、間もなく丸五年になる。その間、病気をしたり、プロバイダの変更などで一時中断したが、現在までのアクセスカウンターは三万にも満たない。
 これを「にも」ととるか、「もう」ととるかは微妙なところだが、確かに、このアクセスカウンターは一日一回のアクセスしか有効でないから、そうでないところと比べたら少ない事も事実である。ただ、それにしても、いかさま少ない事は間違いない。

 ところで、あるメルマガで紹介されて、年甲斐も無く時々覗き見しているサイトがある。
 多分、二十代の女性が運営しているサイトだが、いわゆる「エロサイト」である。三十代の恋人との赤裸々な性描写で、およそ文学とは程遠いものであるが、このサイトのアクセスカウンターが半年で十万件と言うから凄まじい。

 我々が大人になりかけていた頃、親兄弟にも内緒で、こっそりと回し読みしていた「エロ本」と言うのがあった。これらの本は何所で販売されていたのか知らないが、友達の誰かが手に入れたものが、通常の書店ではなく、アンダーグラウンドで流通していたようである。

 やがて、大人になって本は、写真になり、更に、「エロ映画」に変わり、ビデオに代わっていった。ただ、何時しか、これらに対する興味は薄れ、「正規」の本や、映画に代わっていったが、それが人間の誰もが通る成長過程のような気がしている。

 表現方法には、文字によるもの、絵によるもの、音によるもの、工芸によるものなど様々であるが、文字と言うのはその国の文化そのものであり、この国では、人に直接語りかける文字による表現だけが特異な方向に行っているような気がしてならない。

 ところで、有名人の書いたエッセイほどつまらないものは無いと思っている。確かに万が一の幸運をつかみ、それを実現したことは羨ましいとも思う。
 ただ、一定の方向性を持った考え方などは、今流行りのハウツー本みたいなもので、人生の屁の突っかい棒にもならず、寧ろ有害であると、これも勝手に思っている。

 こう言うと、また誰かにお叱りを受けそうだが、有名人の中にも人生の襞を刻んだ素晴らしい人もいるが、この国には、タレントの絵のように、他所では通用しない何かがあるようである。

 表題の「色即是空」とは、ご存知、般若心経の一部で、一口に定義できるほどの生易しいものではないが、全ての存在を否定することによって真実の智恵を会得できるという事と解釈している。この存在とは拘りであり、拘りを捨てる事により、N氏が期待される「面白いエッセイ」が書けるような気がしているが、中身がゼロのような駄文では、ゼロはいくら足してもゼロと言う事になる。

 もっとも、その頃は、「皆空度一切苦厄(全て空となり、一切の苦厄を度す)」となり、西方浄土に旅立っているのかもしれない。(04,10仏法僧)