サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

154.視覚社会

154.視覚社会
 先日、「鉄人28号」の作者である横山光輝さんが自宅の火災事故が元でなくなった。横山さんはほぼ私と同年齢であり、痛ましいことである。ただ、「鉄人28号」は知っていたが、横山さんについては特に認識はなかった。

 この「鉄人28号」もテレビで放映されたときに何気なく見たことは有ったが、取り分けマンガ本を買い求めたことはない。それと言うのも「鉄人28号」が私の年齢から見た場合、漫画世代がもう少し後だったためかもしれない。

 私が始めて漫画の面白さを知ったのは戦前の「のらくろ」や「冒険ダン吉」である。ただこの場合も兄たちが借りてきたものを横で眺めた程度であり、逆に漫画世代とすれば私より一世代上であったかもしれない。それでも「のらくろ」の面白さは格別で、今でものらくろの顔は何も見なくとも画けるほどである。

 「冒険ダン吉」は「のらくろ」より少し難しかったように記憶しているが、物語の中で様々な知恵を働かすところなどもありそれなりに面白かった。ただ、この両方とも軍隊や黒人の原住民を扱ったためか、戦後はいち早く姿を消し、古本すら見ることができなかった。

 戦後、間もなく出現したのが新聞の四コマ漫画であり、我が家では当時、朝日新聞を取っていたので最初に連載されたのはアメリカのチック・ヤングと言う作者による「ブロンディ」であった。
 それまでの日本では見たこともない美人でグラマーな主婦ブロンディとその一家の出来事を描いたもので、EH・エリックさんの若いときのようなダグウッドと言う夫がブロンディに隠れてサンドイッチやホットドッグを作るのであるが、食糧難の時代で、食べたこともないサンドイッチやホットドッグを食べたいと言うより、どんなものだろうと言う興味のほうが強かった。

 次に出現したのがご存知、長谷川町子さんの「サザエさん」である。ごくありふれたサラリーマン家庭を描いたものであるが、それでもわが故郷よりはだいぶモダンだったかもしれない。ただ、あの中でカツオは文字通り等身大の私だったような気がする。

 この頃から少年少女雑誌が出るようになってきて、読むものに飢えていた我々の世代もむさぼるように読みふけった。とは言え、少年雑誌などでもそれほど買ってもらえるわけでもなく、蚕の餌になる桑の木の皮を剥いて乾燥したものを売ってお金に換えたり、時には仲間たちで屑鉄を拾い集めて売って得たお金で買った本を回し読みなどしたものである。

 その頃は今で言う劇画のようなもので、山川惣冶さんの「少年王者」や小松崎茂さんの「大平原児」などに夢中になって、本が回ってくるのが待ち遠しかった。当時、「おもしろブック」という漫画雑誌があり、胸躍るような漫画がたくさん掲載されていたが、私はどちらかと言えば馬場のぼるさんのホンワカした作品が好きだった。

 しかし、ストーリーの面白さと絵の巧みさからなんと言っても手塚治虫さんの「鉄腕アトム」の右に出るものはなかった。この頃から日本の漫画文化は開花期を迎え、世の中は漫画の大洪水を浴びることになるが、私の漫画遍歴熱はこの頃から急速に冷えていってしまったような気がする。なぜ漫画熱が冷めてしまったかと考えると、年齢的に受け入れにくい年齢になったことが最大の理由だと思うが、漫画の性格の変化によるものではないかと思っている。

 現在ではアニメーションなどで宮崎駿さんのような世界的な方も出現しているが、昔、ディズニーの製作した「ファンタジア」というアニメ映画があった。クラシック音楽を映像で表したもので、それなりに美しく、楽しい映画だったが、クラシック好きな友人が「イメージを壊された」と言って激怒したのである。

 私など昔からクラシックなるものを理解していないし、理解していないからイメージもわいてこないが、友人曰く、それぞれの音楽にはそれぞれのイメージを持っているがあの映画によって今までのイメージがことごとく壊されてしまったと言うのである。

 考えてみると、近頃の漫画はあまりにも表現がリアルであり、リアルでありすぎることは、そこから何かへのイメージに繋がらなくなっているのではないかと思うのである。

 たとえば性に関する描写などでも、写真であったら当然法に触れることになるが、創作であるから何でも良いと言うことでろうか、この歳をしてみても目を背けたくなるようなものがある。
 子供が性に目覚める頃から、なんらの制限もなしにこれらが目に飛び込んでくるとしたら、興味や好奇心を飛び越えて日常的になるのは当たり前で、現在の若者たちの性についての考え方は、我々では想像もできないようなところまで行ってしまったような気がする。

 これ以外にも、暴力場面でも、昔のように勧善懲悪と言うことではなく、意味もなく暴力を描写するところに近頃の意味不明な暴力事件がおきているのではないかと勝手に思っている。

 考えてみると、映画などでもバーチャルの世界だからと言って、想像の域を超えた暴力シーンを競っているようで、なんとも味気ない。要するに痛みを感じないのである。しからば何が不足しているかと言えば情緒である。物事にはすべてが勝者の論理だけでなく、時により弱者の苦痛、悲哀、憐憫など様々な情というものが必要である。

 これらがすべて漫画の責任だとは言わないが、最大の理由は若者の読書離れにあるのではないかと思っている。読書をすることによってイマジネーションを膨らませることはできるが、視覚に重きを置いた最近の風潮では豊なイマジネーションは沸いてこない。

 かつて映画の巨匠と言われた方々の作品にはすばらしい描写力でいつまでも心に残る作品が沢山ある。最近でも、アニメの宮崎駿さんや映画の山田洋二監督作品のように、見終わった後で心がふくよかになる。

 日本には青春時代をさして「多感な頃」と言ったが、多感とは、感受性に富んでいること指すが、今の若者たちはいかほどの感受性を持っているのだろうかと、聊か感度の悪くなった爺が要らざる事を考えたくなるのである。(04.04仏法僧)