サイバー老人ホーム

319.仕事と娯楽

 一般的にマスコミはニュースを公正な取り上げ方をするのが、使命だと云う事を聞いていた様な気がするが、最近のマスコミ、即ちテレビ・新聞・雑誌の取り上げ方にはなぜか違和感を感じていた。

 それと云うのも、最近のマスコミは、政治的の偏りと云うか、可なり社会風土からみて偏りがあるように思えてならない。

 勿論、マスコミが一般的に見て社会的弱者の肩を持ち、世論を持ちあげようとする意図は分かるし、社会的弱者の一員として、寧ろ同調したいところでもある。それなのに、違和感を感じるのはなぜかと、衰えた頭脳を振り絞って考えてみた。

 そもそも、こうした傾向が目に付くようになったのは、かつての名大関先代貴ノ花が引退し年寄藤島を継いでから起った藤島家一家を襲ったバッシングであった。連日にわたり、藤島家は公私にわたり国民の目に晒され、最終的には一家離散と云う憂き目にあわされたわけである。

 事の真相など知りたくもないが、これほど悲惨な目にあわされた個人はそれまでにもなかったのではあるまいか。これに前後して起こったのは、プロ野球の野村監督夫人に纏わるもので、とどのつまりは、優勝を目前としていた阪神タイガース監督を辞任しなければならなかったのである。

 それまでは、こうした事件では名誉棄損で訴えられるのが常道であったが、こうした訴訟が、例え勝訴しても、名誉が回復したわけではなく、時間と費用の浪費からか、近頃は、名誉棄損で訴えられることはまれになってしまった。

 これで、味をしめたのか、あらゆるマスコミが総掛りで、こうした有名人の下ネタだか、裏ネタだか知らないが、極めて低次元の取材競争に明け暮れるようになった。その矛先は、それ迄、ある程度、聖域とも目されていた政府高官にまで及ぶようになった。

 こうした状態にした最初のきっかけは、ビートたけしさんが出演している「TVタックル」と云う番組ではなかろうかと思っている。この番組は、政治を題材にした「討論バラエティ番組」となっていて、現役の国会議員が出演するほか、個性の強い評論家や、俳優等が出演していた。

 中でも、現役当時から、兎角問題視されていた浜田幸一元議員等もいて、政治の世界をお茶の間に取り入れたとして、かなり注目されていたのではなかろうか。従って、各政党等もこの番組への出演にかなり力を入れていたと聞いている。

 ただ、これを境に、マスコミ各社の取材合戦の聖域が外されたように感じているのだろうか。いわゆる何でも有りの傾向になったと感じている。そして、とどのつまりは、お笑い芸人までが、こうした政治がらみの番組に顔を出すようになった。だからと言って、なにもお笑い芸人がこうした番組に出てはいけないと言っている訳ではない。

 しかし、何れの道に於いても、専門分野と云うのがあり、とりわけ政治の世界は、法律の分野が厳然と横たわって居り、一夜漬けのお笑い芸人の及ぶところではない。

 人の会話の中には、「しゃれ」とか、「冗談」などの言葉が入る事によって、会話が弾み、時に依り真意の把握に繋がる場合もある。ただ、多くの場合、「しゃれ」はしゃれで有り、「冗談」は冗談として聞き流されるものである。

 然るに、最近の「ニュース番組」や「バラエティ番組」などと云われる「報道番組」を見るにつけ、余りの次元の低さに、こうした番組や、記事を見る意欲が無くなってしまった。勿論、こうした内容を専門としている様な週刊誌等は論外であるが、テレビ局や、大新聞でも、こうしたネタ集めをしているかと思うと、実に嘆かわしい。

 最近は、歴代首相や、大臣ですら、こうしたところに取り上げられないものはいないのではなかろうか。野田内閣は立ちあがって間もなく、鉢呂通産大臣が、原発被災地を視察した際、同好女性記者に「放射能の粉が付いている」と云う発言があったとして、罷免に追い込まれた。勿論、こうした不用意な発言をする事も問題だが、これによって、国政を動かす要人を罷免に迄追い込んだマスコミを何と考えたらよいのだろう。

 お笑い番組だったら、「しゃれ」や「ギャグ」として笑い飛ばせただろうが、公人としては許されない。「放射の粉」発言の大臣も、ごく「しゃれ」っ気の積りでの発言だったのだろう。

 元を糺せば、公人がこのような発言をする事が間違いだったかもしれないが、ただ、最近のマスコミが、このような奇をてらった取材の殊更力を入れている風に見えてならない。

 人間は、誰しも良識と云うのを持っている筈である。この良識とは、主義主張や、自分の利益に拘らず、物事を健全に判断することである。それは、敢えて断らずとも働く、人間の英知である。物事には、どんな事でも反対もあれば、賛成もある。マスコミとは、国民の良識を健全に開かせるためのものではなかったのか。

 更に、物事と云うのは、常に変動しているもので、有る条件に固定して考えるのは、愚の骨頂である。先の、TPP問題でも、固定して条件で賛否を話し合っても何にもならない。然るべき状態になれば、当然、然るべき専門家が改善するための努力をするはずである。 ただ、厳然たる事実は、この日本と云う国は、他国かとの貿易を通して以外に生きてゆく道はないと云うことである。

 それが、一部の偏った層を刺激する様な報道の在り方には怒りすら感じていた。その結果、かつて、官邸でのぶら下がりによる取材が姿を消したように、取材競争が制限されているとしたら、マスコミが狙う所と逆効果ではないかと考えていたのが昨年の12月まで、ところが、昨年の12月に、NHK「BSシネマ」の番組で見た「ネットワーク」という映画を見て一変した。

 この映画、1976年と云うから、私がまだ四十代の前半の頃の映画である。主演にウイリアム・ホールデンが出ると言うので、西部劇程度の関心で見たのであるが、アメリカの、テレビ業界が「報道番組」の視聴率確保の狂奔する有様を描いたもので、テレビ会社のスタッフが、多少嘘を交えても、視聴者にアピールするものを作り上げ、競争を繰り広げるという筋書きであった。

 内容は、長年の人気のテレビキャスター(ピーター・フィンチ)が、視聴率が低迷していることから番組をおろされることになった。これを知ったニュース部門の責任者シューマッカー(ウイリアム・ホールデン)が最後にもう一度このニュースキャスターを使うことにした。ところが、その時になって、このキャスターが「次回に自殺する」と宣言したことから物語が始まる。

 当時、アメリカのテレビ業界は、視聴率競争に翻弄されていた。この中で、ウイリアム・ホールデン扮するシューマッカーは、「テレビは娯楽」であると云ったのである。これを聞いた途端、日本の報道番組や、新聞・週刊誌の馬鹿げた下ネタ漁りの記事の狙いが分かった様な気がした。

 この、「ネットワーク」でも、最後は大口出資者の意向に反する発言をして、テレビキャスターはあっさりと命まで失うことになる。何んとなく、「落合監督と中日球団」の感じがしないでもない。


 聊か古い話で恐縮だが、大宅荘一さんがまだ健在であった頃と云うから、昭和45年以前の事になり、「ネットワーク」が上映されたころであろうか。大宅荘一さん主体の政治討論会があり、良く、拝見した。参加者には、当時のそうそうたるメンバーがずらりと並んでいて、その中に明治大学教授で、政治評論家の藤原弘達さんが居られた。藤原弘達さんも知る人ぞ知る極めて個性の強い人で、自説の為には何をも恐れない様な所がある方で、毎週楽しみに見ていた。

 当時、日本はまだ中国とは国交が開かれない時期で、何かの話の中で、周恩来首相に話が及んだ時、藤原弘達さんが、「彼はまだ若造だよ」と発言したことがあった。すると、大宅荘一さんがすかさず「そう言うことを言っちゃあまずいよ」と云って、前言を取り消させた事があった。この時を境に、藤原弘達さんは、この番組を初め、テレビにもあまり顔を出さなくなったと記憶しているが、当時のテレビ局としても、この程度の矜持は持ち合せており、たとえ人気の評論家であっても示すべき良識を持ち合せていたと今でも記憶に残っている。

 最近のテレビ番組には、番組プロデューサーから始まって、ナビゲーター・ディレクター・構成・演出・編成・リサーチなど、意味不明の大勢のスタッフが寄ってたかって作っていて、ニュースキャスターなどと云っても、単にルックスと、声の通りが良いと云うだけかと思えば気も楽である。

 「ネットワーク」のシューマッカーは、ニュース部門の責任者となっているが、ニュースキャスターの話す内容の執筆者でもある。

 最近になって知った事だが、あのビート・たけしさんの「TVタックル」でも、事前に番組出演者の性格と役付け、進行に沿った各々の発言が予め決められており、進行の構成台本には「誰彼反論」「宥める司会」「誰彼激怒して退場」と細かにト書きがされていると云うことである。発言の自由度の幅はある程度利くがほぼ台本に沿った構成で収録されていると云うことで、討論番組の範疇に当てはまらない、という批判も存在するらしい。

 ただ、これ等に関わっている人たちは、「仕事」として真剣に取り組んでいるのだろうが、視聴する我々は、「娯楽」であるとのことだが、果たしてそう思っている視聴者はどれほどいるのだろうか。ただ今『情報化社会』の真っ只中、何んともややこしい世の中になったものである。(12.02.01仏法僧)