サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

102.幸せって・・・

 7月頃、日本の一戸当りの平均貯蓄高がおよそ1700万円、総所帯数の約70パーセントが平均以下だと言うことが発表になった。これと国民総貯蓄高の1400兆円とどのように関係しているのかわからないが、いずれにせよ総所帯の30パーセント強が1700万円以上の貯蓄を持っており、統計的に推測すると、どえらいお金持ちがかなりいることになり、不景気風の吹きつづける日本とは縁のない話しのような気がしないでもない。

 このどちらに我が家が属するかと言うことはいろいろ差し支えがあるので触れないことにするが、果たして今、残りの人生で使い切れないほどのお金があったらどのように生きたらよいか暇に任せて考えてみた。

 人間、衣食足りて礼節を知ると言われ、この礼節とは礼儀と節度と言うことであるが、今の日本で食わされる恐怖と、有り余った衣類の処分に頭を悩ますことがあっても宮沢賢治の「寒さの夏はおろおろ歩き」ということはないようだ。尤も、その分、礼節の方はどこかへ置き忘れたのかもしれない。

 有り余ったお金を最も効率よく使うには先ず、住いに使うのが手っ取り早そうである。ところがこの歳になってみると狭い我が家であっても1ヶ月の間に足も踏み入れたこともない部屋がある。結局家庭における行動範囲など知れたもので、普段の生活の場と時々ほんの少し現実から逃避できるスペースがあればよいと言うことかも知れない。

 何時だったか、テレビであのバブル期に、超豪華かな大邸宅を建てて、今はそこに老夫婦だけで生活しているとこころを拝見したが、いくらお金が余ったとしても、維持管理を考えただけで、ただ差し上げると言われてもお断りしたい。

 取り分け来客があるでもなく、今となっては生活する上で支障のない範囲で、むしろできるだけ狭いスペースがあればよいと考えている。そうなると住いでもそれほど多くのお金を使うことは期待できそうにない。
 それでも「できるだけ良い場所」であればかなりの支出を期待できそうである。ところがこの「できるだけ良い場所」というのが問題である。都会のど真ん中、高級住宅街、何れもお断りしたい。できれば窓から顔を出して味噌醤油の貸し借りができるようなところが良い。

 然らば食についてはどうかということになるが、日常の食生活については冒頭に述べたとおりである。そこでグルメ、高級レストランを毎日食べ歩いたならどうかと思うのであるが、考えただけでゲップが出てきて、「千と千尋の神隠し」に迷い込みそうである。やはりお茶漬けだけで昼食を済ますことがあっても良いわけで、こうなると食についても期待できない。
 尤も酒池肉林に迷い込むというてもあるが、私の乏しい経験からしても空しさと後悔こそあっても心の癒しにもならないことはいくらお金が有り余っていてもご遠慮したい。

 次が衣であるが、これは女性と男性では多少趣を事にするが、先ず私個人で見たら全く期待できない。そこで家内についてはどうかというと、連日高級ブランド物をとっかえ引き換え着替えている姿を想像してみるだけで汗が噴出してくる。

 結局、日常生活の延長の中では有り余るお金を使う方途は期待できそうにない。ところが最近は生活にゆとりを楽しむと言うことがあるではないかと思うのである。何と言っても有り余るお金があるのだからその方面にじゃんじゃん使えばよいのである。手っ取り早いのが海外旅行である。先ず行ったこともない外国に次々に出かけ、美食を楽しみ、高級ブランド品をしこたま買い込めばよいのである。

 さて、そこで何所へ行こうか・・・。風光明媚なところはごまんとあり、これは期待できそうである。ところがパック旅行で設定されているようなところは何所へいっても日本人が押し合い、へしあいで「天橋立のまた覗き」のようなもので気分の珍しさはあっても、何時までもうつつを抜かすほどのこともない。

 買物と言っても、高級貴金属品と言うのはお金を使ったことにはならない。置き換えただけである。それならば絵画や骨董品ならどうだと言うことになるが、これだとうまく行くとまたお金が増えてしまうことにならないか心配である。絵などは自分の気に入ったものがあればよいのであってお金の額や名前で選ぶものではない。それに愚にもつかないおもちゃに、たとえ骨董価値があろうとも目の色を変えて買いあさるつもりもない。

 買物と言うのは結構欲望を満たしてくれるらしいが、結局これらは何のために買うかということが問題であるようである。最近はどちらかと言えば安ければ買う傾向があるようだ。「棚と押入れ」の田山さんの言われるように、今となっては何かを求めることよりはよりは生活を簡素になることの方がより強い願望なのかもしれない。

 こうなると有り余ったお金は孫達にでも分けてやればよいが、これが考えものである。目的も努力する意欲も失った若者をつくり、後で後悔するなどはご免を蒙りたい。

 最近、現役を引退された方の大型クルージングに人気があるそうである。これは現在の感覚からすればかなり近いような気もする。何故老人にクルージングが人気があるかと言えば、勿論行き届いた最高のエンターテイメントにもよるが、これは現実からの逃避であるであると考えている。
 逃避と言うのが悪ければ隔絶である。これは中高年の山登りにも当てはめられるのであるが、一時的にせよ現世のしがらみから抜け出したいと言う願望ではないかと思っている。ただ、これは体調にも大きく左右されるが、現実からの隔絶であれば他にも方法がある。

 結局、いくら豪華な住まいに住んでみても、いくら高価な衣服を纏うとも、そして王侯貴族のような美食に明け暮れても、現世のしがらみを引き摺っている限り幸せを感ずるものではないような気がする。

 「赤毛のアン」曰く、「豊か過ぎるのはイマジネーションを枯渇させる」らしい。イマジネーションを持たない日々なんて「想像」しただけでうんざりする。そうなると考えられる最高の贅沢と言うのは、わび茶の世界であり、良寛の五合庵の世界と言うことになって有り余るお金を使う方途はなさそうである。

 次の詩は「ニューヨーク大学のリハビリテーションルームに刻んであったもので作者不詳。ベトナム戦争で心身ともに深く傷つきながら、立ち直っていった若者の作品のようです。」と人に教えられたものであるが、翻って幸せって・・・。と考えるのである。(02.10仏法僧)
「人生の祝福 」
「大事をなそうとして力を与えて欲しいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった

より偉大なことが出来るようにと健康を求めたのに
より良きことが出来るようにと病弱を与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き遂げられた

神の意にそわぬものであるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ」