サイバー老人ホーム

247.雪隠(トイレ)2

 江戸時代の路傍便所は西高東低であり、大阪生まれの江戸時代の風俗作家喜多川守貞による「守貞満稿」によると、「京阪は路傍諸所尿桶を置きて往来人の尿を棄てす」とある。

 これは、京阪の場合、専業の渡辺と言うものが発案し、官許を得て設置し、溜まった尿を専業者の所得にしたと言うのである。町屋の発展の歴史の違いだろうか。

 ところで、汲み取り便所が登場したのは鎌倉時代以降であり、屎尿が作物の肥やしに成ると言うことが発見されて以降と言うことである。

 当初は、あくまで個人使用であったが、三都といわれる、江戸・京都・大阪などの大都市が出現し、従来自給自足であった農作物が、これらの大都市に集中するように成ると、肥やしの需要も増大した。

 そこで出現したのが、汲み取り屋、世に言う汚穢屋である。このことについては、お隣の「宝塚の古文書を読む会」の機関紙「源右衛門蔵(げんよみぐら)10」に概略次のように述べられている。

 「日本や中国など水耕栽培農業(農業)のあったところは比較的早く野グソと縁が切れたが、西欧では町中に撒き散らかされて伝染病の発生源」となっていたらしい。

 「日本で稲作栽培にウンコが肥料として使われたのは鎌倉時代以降といわれているが、それが経済的意味を持つようになったのは江戸時代、江戸や大阪などの都市の形成と綿・菜種など経済作物の登場以後」であったと言う事である。

 安永三年(1774)、御触れで、その前文に、「往古は、百姓が宜しき場所で家々へ相対で(取引)仕り、下屎価として菜・大根の類を渡して下屎を集めていた。ところが町方の人口の増大につれ、農作業の合間の屎取りでは間に合い兼ねる事しばしば起こり、下屎処理の急掃除人(汚穢屋、江戸では下掃除人)が出現し、値段せり上がり、全急掃除人仲買仕り候ゆえ、高値に相成り」下屎取りを生業とするものが出現したと言うのである。

 然らば、これら急掃除人がいくらで引き取っていたかと言うことになると、その当時の「下屎」の出の元である米相場に左右されていたようである。

 「天保九年(1838)の大阪下屎一件・村々調印書によると、「壱人分下屎代銀二匁五分(約二百七十文)」あった」と言う事である。当時、一戸におおよそ十人位で暮らしていたと言う事で、さしずめ一分三朱と言うことになる。

 ところで「源右衛門蔵」によると、「ウンコの値段には五段階の価格差が有り、大名屋敷が特上で牢屋のウンコが最低。長屋のウンコは下から二番目のDランクであった」と言うことである。

 これについては作家であり学者でもある藤田雅矢さんの書かれた「糞袋」に、「中身によって甲・乙・丙・丁の四段階と更に特上・上・並と区分され、丙の特上五十文、丙の上四十五文、丙の並四十文、甲とか乙は花街やお公家様のもので買値は高かった」ということである。

 これは、江戸でも同じで、急掃除人(江戸では下掃除人)たちは、武家屋敷、寺社、町人宿を夫々の得意先として競って廻っていたのだろう。

 これも物の本に寄れば、上方では肥として屎と尿の両方が回収され、借家人の場合、屎代は家主、尿代は借家人の収入となり、前者は十人分が年間金二〜三分で、農地に近いほど高価であった。後者は冬になると畑で取れた綿や蕪菜、尿代は茄子や大根を渡していたと言う事である。

 ただし、江戸では肥やしはもっぱら屎だけで、借家人の場合、屎は大屋の取り分、尿は溝に流していた、と書かれているがこれは少し信じ難い。

 江戸中期以降、江戸市民は百万を越えており、この小便を総てそれ程多くもない江戸の河川に流していたらどうなるか容易に想像がつく。

 それに、江戸市民は八割は長屋住まいだったといわれ、長屋の場合は、惣雪隠といい、長屋一棟に対して雪隠は一箇所だけである。しかも開口部は、半戸と言って、せいぜい腰の高さ程度であった。ここで総ての小便を区分して致しているわけでもなく、取り分け女性の場合は厳密の区分けできるはずもない。

 ただ、この当時、「源右衛門蔵」によると、「大家の収入は大略百両の株の年給二十両、余得十両、糞代大概凡そ三四十両を得る。糞代は家主の有とし、得意の農夫に之を売る」と言うことである。

 幕末江戸では二万人を数えた大家の収入は、長屋の維持管理費として二十両ほどを家主から、それ以外に糞代が大きく年三〜四十両ということで、当時の職人の中でも高収入だった大工が年収十八両から二十両とされているから、大家の生計は店子の糞代が支えていたと言う事に成る。

 ただし、ここまでは町方の話し、然らば、我が祖先の百姓たちは如何であったかと言うと、こうした町方の排泄する糞尿の恩恵を蒙る事はなく、専ら、「自家生産」の頼っていた事になる。それも、粗食に耐え忍んで搾り出した、さしずめ丙か丁級の並屎と言うことになるだろうか。

 天和年間(1681〜84)に編纂された百姓百科事典「百姓伝記」によると、
「土民(百姓)たらんものは、身上分限相応に、雪隠・西浄・東垣(とうえん)・香々を処々にかまえ、不浄を一適すつべからず、不浄とは大小便の儀なり。屋敷・家内に不浄を麁相(そそう)(粗末)にすつるは、第一汚し、土民は四季ともに万物を作り出しわざとする。不浄は皆以って土を肥やし、よろず作毛を養う。不浄を粗末にしては、作毛実る事少なく、次第に土やせて、薄田畑と成る。

 然らば土民も次第に身上衰え、一類・眷族を失う事疑いなし。其の技を大切に務る土民は、土を肥やし、作毛をよく作り出し、諸民を養う事、自ずから佛菩薩の裁断(さばき)なり」とまさに「下」にも置かないもてなしである。

 そして、「雪隠・西浄・東垣・香々と名付くるは上つ方の不浄場のこと也」と断り、「土民の不浄所・灰屋(木灰置き場)を日陰に作りては常に日差しなく、不浄腐りかね、灰も乾きかね、作毛の肥やしに利くこと薄く、損多きものなり。東南の陽気を受けて作事すべきなり。溜め桶も日差しよき方に据え、四季ともに不浄良く腐るようにすべし」とあり、糞尿の扱いには最大限の配慮をしていたのだろう。
 
 そもそも百姓の便所は、農業生産を優先して造られており、私の子供の頃でも、小便所は門口にあり、これを門脇便所又は戸口便所と言っていた。したがって、他所の家を訪ねた場合でも、家に入る前に、入口の傍に設えた小便所で用を足してから訪問の挨拶をしていた。

 大の場合も同様で、家の前又は横に造られた小屋に設えた溜め桶に二枚の板を渡しただけの至って簡素の便所が有り、是は、肥やしとして汲み出す便宜を考えたためである。

 この肥たご(桶)担ぎは、百姓の倅であれば誰でも経験する事で、是を二たご(約八十キロ)を天秤棒で且ついて独り前の百姓とみなされていたのである。私の子供の頃は、天秤棒の前後を兄と二人で担ぎ、担ぎ方が悪ければ、時々跳ね返りのお釣りを顔に浴びながら、食糧難の時代を支えていたのである。

 今ではめったにお目にかかることもなくなり、懐かしくさえある下屎の香に聊か郷愁さえ感じる今日この頃である。(08.09仏法僧)