サイバー老人ホーム

246.雪隠(トイレ)1

 近頃の子供達は、便所の事をトイレが正式な言葉と思っているのではなかろうか。Google辞書で引いてみると、「トイレットルームの事」と出てきて、即ち便所である。私が子供の頃は便所をWCと言うのが一般的であり、WCとは「水洗便所」のことであるが、水洗にかかわらず学校や駅の便所に「WC」と言う札が掲げられていた。

 然らば、昔はどのように言ったかと言うと、「雪隠」であり、セッチンと読む。そもそも、この語源は曹洞宗の僧堂の方角から来ていて、東側にあるのは東司、西にあるのは西浄、南にあるのは東垣、そして北にあるのを雪隠と言ったらしい。

 ただ、物の本によると、江戸時代、上方では一般にはセンチ(雪隠)、そして女性は「コウカ(後架)」、又は「手水場」、男性は「手水場」であり、江戸では男女とも「コウカ(後架)」であり、雪隠とは云わないと書いてある。しかし、私の子供の頃も、その後も手水場は使ったが、「後架」は後にも先にも聞いた事はない。

 それでは、わが国で便所に用便するようになったのは何時ごろかと言うと、なんと、神代の昔にさかのぼる。

 わが国最古の歴史説話「古事記」の中に、「ミシマミゾクイの娘で、セヤダチヒメという美しい乙女が居た。
 これを三輪山の大物主尊が見て大層気に入り、その乙女が大便をするとき、赤く塗った矢に姿を変えて、厠から流れ下って驚かせたので、乙女は慌てふためいてその矢を寝床の側におくと、矢はたちまち端麗な男に代わり、二人の間に女の子が生まれ、ヒメタチイスケヨリヒメと名づけた。後に神武天皇の后になった」と言うことである。

 更に、「いにしえ厠は、溝流の上に造りて、まりたる屎(くそ又はし)は、やがて其の水に流れ失する如く構える故に、川屋とは云うなり」と注釈がついている。

 尤も、これはあくまで最初に文献に出た時であって、実際はそれよりはるかにさかのぼり、便所と言う一定の場所で、用事を済ませるようになったのは、なんと今から四千年から六千年前の縄文時代ごろと言うから驚いた。

 福井県の鳥浜貝塚からは、川に板を張り出したと思しき設備が見つかった。最初、この設備は橋ではないかと考えられたが、周辺に糞石(排泄物の化石)が大量に見つかっているので、のちに古代のトイレであると確認された。人々は、この板の向こうに尻をひりだして、川の中に「落し物」をしたのではないかと考えられているというのである。

 ただ、この頃は、ごく一般的には「野糞」であり、住まいが定着すると供に、便所が定着しないといたるところ「野糞」がひりまくられ、この香ともども居たたまれない必用に攻められたのではなかろうか。

 少し時代は下がって、平安時代に入り、書院造りなどと言う優雅な建物と、十二単などが出現し、やんごとなき姫君たちの、この御用を足すと言うのが大きな問題となった。即ち、寝殿造りでは厠は無かったのである。

 江戸時代伊勢貞丈と言う学者の「安斎随筆」の中で、「いにしえ雪隠と言うところはなく、家の内に用便するところを一間つくって樋殿と呼び、大便用の清筥(しのはこ=オマル)と、小便用の虎子(おおつぼ)を置いて」致したと言うことである。

 それでは何所で致したかと言うと、保元二年(1157)「兵藩記」の東三条殿の儀式に、「細殿(廊下)の北一間を御樋殿となし、御簾を懸け,御座一枚を敷く」、即ち廊下の一角に御簾と、御座壱枚を敷いて致したと言うことである。今でも便所といえば、「廊下の突き当たり」などと言うが、若しかしたらこの頃の名残かもしれない。

 そこで、十二単を着た姫様が用を足す場合は、先ずお供の女官が姫の内掛けを取り、袴を脱がせ、長い髪を前にして帯の間に挟み、次に樋箱の背後の長い取っ手のあるT字型の支えを据付け、ここに十二単の長いすそを懸ける。

 姫は裾を懸けたまま、側面を衣装で隠し、清箱の上にしゃがみこんで用を足す、という、まこと大仕事であり、タイミングを間違えると、大事になっただろうと推測される。ただ、これはやんごとなき人々の場合であり、世の下々の場合は相変わらず野糞であった。

 十三世紀の前半頃成立された「宇治拾遺物語」によると、「大食と評判だった清徳と言う聖に、時の右大臣藤原師輔が、自邸に招いて米十石を炊いて出したところ、後ろについてきた餓鬼や、虎・狼などが寄ってたかって食べてしまい、其の帰りに、京都四条の北の小路にくると、餓鬼達は突然排便し、この小路が糞で埋め尽くされた。

 人はこの小路を「糞小路」と名づけたが、この南にあった小路が「綾小路」であるため、「糞小路」を「錦小路」と改めさせた」と言うことであるが、「錦小路」はもともと具足などを売っていたので、糞と具足を引っ掛けた小話みたいな物であるらしい。

 平安時代後期の作「餓鬼草紙」と言う絵巻の「伺便餓鬼」の場面があり、街頭で、老若男女が排便しているが、紙片や木や竹を短冊状に割ったものが散乱している。これは、「糞べら」と呼ばれるもので、用を足した後拭き取っていた。

 僻地の農村では、戦前まで使われていたと物の本に書かれているが、お目にかかったことはない。
注目するのは、餓鬼たちが、一様に高足駄を履いていることで、当時、高価な高足駄を、子供の餓鬼まで履いているということで、野糞のための常設的な野外便所では無いかと言うことである。

 江戸時代後期の戯作者曲亭馬琴によると、「京の家々厠の前に小便担い桶ありて、女もそれへ小便をする故に、富豪の女房も小便は悉く立て居てするなり。或は供二三人連れたる女、道端の小便たごへ立ちながら尻のほうを向けて小便するに恥じる色なく笑う人もなし」と言うことだが、京の場合、家々の前に立ち小便用の桶を置き、女もこの桶にしていたと言うのである。

 ただ、この光景は、私の子供のころでも、田舎に残っていて、桶等置いてない道端で、ひょいと後ろを向いて尻をめくって致している風景など、珍しい事ではなかった。

 ただし、そのときの女性が、うら若き女性だったか否かは記憶が定かではない。多分、子供の目には、若いか年を取っていたかより、大人か、子供かの区別しかなかったような気がする。

 ここで、あえて女性の名誉のために言うなら、男の立小便の風習は、昭和40年代では、極当たり前の風景であった。(08.08仏法僧)