56.全自動洗濯機

 家のカミさんがとうとう全自動洗濯機を買うことになった。「エーッ」っと驚かれるかもしれないが実はそうなのである。もっとも何度か買う機会はあったのであるが、とうとう今まで30余年間にわたりそっぽを向きつづけてきたのである。その頑固さたるや夫婦と思えない(?)頑固さである。

 それほどの金額のものでもないのになぜ今まで拒否しつづけてきたかといえば、理由は簡単である。あの全自動というのが信じられなかったのである。さすがに洗濯板とたらいという時代は無かったが、結婚当時は一槽式で、手回しのゴムロールのついたものであった。これがかなりの長い期間使っていたような気がするが、世の中に全自動洗濯機が出てからも頑固に二槽式を使いつづけてきたのである。

 汚れのひどいものは力をこめてごしごし洗う、洗濯というものはそういうものだと体の芯から覚えこんでいるのである。したがって自分の目に止まらないようなところでいくらかき混ぜられてもそれは信じられないのである。プロセスを重んじるというところはいささか夫唱婦随の感が無いでもない。それでも買い替え時期にはいつも勧めるのであるが、決まって「いいの、うちはこれでいいの」の一点張りであったのである。

 本人がそれでよいというのだから「どうぞご勝手に」と言いたいところであるが、この世に折角生を受けて生まれてきたのであるから、この程度の文明の発展の恩恵を受けても罰は当たらないと思うのである。ところがなかなか本人もそう簡単には信念を曲げないのである。朝の忙しいときに時々覗きに行って落ち具合や、水の澄み具合を見ているのである。

 時には停め忘れて水がじゃあじゃあ流しっぱなしになっていて「水を止めて!」などと怒鳴られるのであるが、何のことは無い、こちらが全自動の役割を担っているのではないかと情けなくなる。本人にしてみればじっと監視して洗濯機にも命令を下しているつもりなのかもしれない。

 先週本人にとってはいささか不本意であるかもしれないが待望の全自動洗濯機が来た。夕方の到着であったので、翌朝、早速洗濯を始めたが、なにやら胡散臭そうな顔をしてじっと立って見つめている。順調に動き始めたのを確認してようやくその場を離れたが、それでも時々覗きに行くのである。やがて洗濯機が停止すると恐る恐る蓋を開けて中を覗き込み、「アッ、終わってる!アッハハア」だって。この「アッハハア」が何を意味したのか分からないが、文明の利器を無事に使いこなした快感であったか、はたまたテレ笑いであったかそこのところは定かではない。

 おもむろに洗濯物を取り出してみたが、なんとなく不信に満ちた面持ちで洗濯物を広げてみていたが、首を傾けながら物干し竿に広げていたのである。機械が全てをこなすということがまだ信じられず、何か一言文句を言いたかったのかもしれない。

 別にカミさんをこけにするつもりは無い。思えば私にしても同じであった。いわゆるオートミッションの自動車を乗るようになったのは50をかなり越えてからで、それまでは「ノークラ」の車など見向きもしなかった。「あんな遊園地の乗り物みたいな車に乗れるかい」ということである。「右足の先っぽだけチョコッと動かすだけで何時間も車の中に閉じ込められていたらグレてしまうよ」なんてことを平気で口外していた。

 考えてみれば全自動というのは熟練者に対する冒涜なのかもしれない。折角長い年月を掛けて身につけた技量を全自動という名のもとに全くのド素人とたちまちにして同一線上に並べられることになんとも不合理を感じるのである。この技量の中には体験のもとに獲得した裏技もあり、これらを含めてポッと出のド素人が我が物顔に肩を並べられるところが耐えられないのである。
 日進月歩のパソコンの世界でもいまだにDOS/Vにこだわっている人があるが、これなどもド素人と同一視されることへの抵抗かもしれない。

 もっともこれは何も電気製品や自動車に限ったことではない。いまどき敢えて重い荷物を背負ってえっちらおっちら歩いて山になど登らなくても、山頂までとは言わないまでもその近くまでバスあり、ロ−プウエイあり、ゴンドラありで手軽に山頂の醍醐味を味わえるようになった。それでも尚且つ麓から歩いて山登りをしようなどというのは「あんたらとは違うぞ」という自意識なのかもしれない。上高地などを歩くとこの両方の世界の人々が交じり合ってそれぞれの主張をしているようで面白い。

 ところでこれは全自動ではないが最近「大発見」をしたのである。先月「51.美容院」に行ってきてふと感じたのであるが、あの制御不能の癖毛を制御するのは「ヘアードライヤー」ではないのかと思ったのである。それまでは「これはご先祖からのなせる技であり、今更どうあがいてみてもどうにもならない」ものと考えて諦めていたのである。ところが床屋でも美容院でも同じであるが、行ってきた後は暫く実に従順に落ち着いているのである。

 今まではこれは毛の先端をカットすることにより、毛髪の中にたまった応力を逃してやるためにまっすぐになると文字通り勝手に考えていたのである。言い訳になるが、金属素材では多少はこのような現象があるようなことを誰かに聞いたことがあったのである。

 ところがヘアードライヤーを使うことでこの癖毛を見事に制御できるのである。「何を今更」と思われるかもしれないが、「ヘアードライヤー」というのは「髪乾燥器」であり、文字通り髪を乾燥させるものだとばかり思っていた。

 したがって、人生60有余年、ヘアードライヤーを整髪に使ったことは無かったのである。無知といえばそれまでだが、人の思い込みというものは怖いものである。それにしては娘らの髪を見ていて「なぜこの親にして」不幸中の幸いとは思ってはいたのである。

 ところでカミさんの「全自動洗濯機」然り、私の「ヘアードライヤー」然り、今まで勝手な思い込みでかたくなに背を向け続けたものの中にはもっともっと良いものがあるのかもしれないと思い始めているのである。(01.03仏法僧)
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