サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

130.「野球石器時代」1

 あの有名な作詞家でもあり作家でもある阿久悠さんの作品に「瀬戸内少年野球団」という作品がある。ずいぶん以前に書かれた本で、映画は見たが本は読んでいないので、図書館などを何回も探したが今まで見つからなかったが、例のインターネットの古本探しで簡単に手に入れることができたのである。

 何故この本を読みたかったかは、阿久悠さんが私と同年の頃の生まれ(学年は一年上)であり、高名な詩人があの終戦時代をどういう感覚ですごしたか知りたかったのである。
 尤も、「栴檀は双葉より芳し」というが小さい時から詩歌には長けていたようである。但し、この物語に出てくる流行歌は私もだいたい意味もわからずに唄っていたようであるが、面白いことには「右カーブ、左カーブ・・・などと言う一番下品なお絵描き歌」は遠く離れて信州の山の中でも唄われており、子供というのはいけないということは誰に教わらなくとも伝わるものらしい。

 物語は、淡路島の小さな町、江坂町を舞台に、戦後間もなく小学校3年生からの子供たちの生活を描いたもので、主人公は秀才の誉れ高い足柄竜太である。この竜太以外にいわゆる「武闘派」の通称バラケツの正木三郎や、美少女で頭の良い波多野武女(ムメ)が出てくる。当然この竜太に阿久悠さんをダブらせ、それに私自身をなぞらえてみた。

 江坂町というのは淡路島の西海岸にあり、大阪、神戸を対岸に見る東海岸側に比べて、文化の光は届きにくかったようであるが、それでも我が信州北牧村に比べれば雲泥の差があり、我が村は文字通り文化の光の果てるところであったのである。したがって私から見れば町場もん(者)であり、洗練されていたことになる。竜太が自分のことを「ボク」というのに対し、我が村では男も女も「オラア(俺は)」「オメエ(お前)」だったのである。

 文化や戦後の民主主義の光は届きにくいとは言え、関西文化圏のど真ん中の影響を受けているのと、おおらかな風土のためか実にのびのびとしている。それと竜太の知的レベルは我が村とはかなりの差があったようである。
 尤も、この竜太少年、ムメに言わせると「だんだんアホになっていくみたい」で、剃刀のような少年が海鼠(なまこ)のように変って行ったようであるが、この点は、泥付きのジャガイモのような、十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人のはずが、ただの人になるのが早すぎた私とは大分差があったようである。

 私の場合は、バラケツとはいわなかったが、近所に住む女先生が入学早々に「豪傑」というニックネームをつけてくれたが、恐れを成してかあまり使われることなくいつしか消えてしまった。

 物語は昭和20年8月15日の終戦の日から始まるが、このとき竜太は小学校3年生、私は一級下の2年生である。但し、下といっても生まれたのは阿久悠さんと同じ年であるからせいぜい数ヶ月の差ということになる。
 それにしてはこの日の感じ方にはかなりの差があって、竜太は脱水状態になるほど泣いたというのに、私の方は玉音放送は聞いたが、取り分け感慨もなく、仲間と連れ立って、蛹(さなぎ)のようなおチンチンを剥き出しにして千曲川に飛び込んで水遊びに興じたのである。

 尤も、この映画を作った篠田正浩監督は我々より更に四つほど先輩に当るが、終戦の時の意識のギャップに愕然としたという事であるから、当時、一年学年が上と言う事は歳の差より大きな違いがあったのかもしれない。

 あの頃、戦争といっても我が村から戦争の匂いを嗅ぐことは到底無理で、空襲警報はおろか、B29の来襲も成層圏のはるかかなたを錐の先のような黒点が飛行機雲を引いて飛び去っただけで、機影を確認することもできなかったのである。
その点、神戸大阪方面への爆撃を目の当たりにした竜太より戦争に対する感じ方がかなり希薄だったような気もする。

 だからといって決して軍人に対する憧れがなかったわけではないが、竜太のように、戦後進駐軍に投石で攻撃するなんて勇気は全くなく、進駐軍を間近に見る機会もなかったのである。たまに猛スピードでほこりを巻き上げて砂利道を駆け抜けるジープの姿におびえ、慌てて物影に隠れる始末であった。

 終戦の年の夏休み明けは、竜太と同じで教科書を墨で塗りつぶすことから始まった。小学校(正式には国民学校)二年の時であるから「夢も希望も正義も全てが墨にうずもれて」しまうほどの感慨はなかったが、国全体が弛緩してしまったことは感じていた。それよりも何よりも食糧事情が悪く、むやみに腹がすいた事だけが記憶に残っている。

 この物語で唯一竜太より勝ったと思われるのは、野生の果物や木の実ではなかったかと思う。竜太達も「夏は、専ら植物分布図に従って行動」し、イタドリに始まり、ヤマモモ、秋の山栗と続いたようであるが、ヤマモモというのはなかったが、我が村ではこれに野苺、グミ、桑の実と続き、竜太少年たちのヤマモモで顔中真っ赤に染まるほど食べたことには十分対抗できたのである。

 更に秋になるとアケビ、山葡萄、猿梨、ゴムシ、山栗、胡桃と質量とも豊富だったのである。特にアケビは、この当時甘いものに飢えていた時期であり、アケビの実の甘さは格別であったが、種子が多く、種子を残して甘味だけを吸い取るのであるが、どうしても種子を飲み込んでしまうことになる。その結果は猛烈な便秘になるのであって、この苦しみを経験したことのない子供はいなかったのではないだろうか。

 一方竜太達は祭りの屋台で片っ端から食べ歩き、竜太を除き全員がひどい下痢を起こすことになるが、アケビの実を食べ過ぎてひどい便秘になるのとはえらい違いである。
 尤も、我が村では祭りといえども食べ過ぎるほどの種類はなかったようである。竜太達が食べた中で、アイスキャンデー、カルメ焼き、ポンせんべい、それにハッカパイプ程度ではなかったかと思う。この辺りのも文化の光の届き具合に差があったようである。

 この中でも、特にアイスキャンデーには竜太同様、特別の感慨を持っていて、このことについてはこの「雑言」の「美味いもん」にも触れている。竜太少年と同じ一本5円であったが、家の手伝いをしている時は比較的すんなりと買ってもらえたが、遊びほうけている時は母親の不機嫌な顔を見るだけであった。(03.08仏法僧)