サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

38.良 寛2

  水上勉氏はもともと臨済宗に僧籍を置く人であったらしいが、そうした環境の中で育ち、日夜研鑚に励む人たちの中にいて、自らもその厳しさを十分に知り尽くしてのことであろう。時には酒を喰らい、日がな一日子供と遊び呆けている良寛の生き様にはかなり手厳しく言及している。

  ただ、これは松本市壽さんが言うまでもなく、かなり現代的な解釈のような気もする。確かに百丈慧懐は「一日作さざれば一日喰わず」と説いているが、日がな一日座禅三昧の禅僧とどれほどの違いがあったものであろうか。

  庶民にとっては難解な禅問答より、良寛の食するために働かなくとも十分に幸せを感じている生き方に泥田を這いまわっている百姓にとって大きな救いを感じていたのかもしれない。「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉もあり、真の幸せは物の豊かさより心の豊かさであることを良寛は身をもって示していたのではないかと思っている。

  人の生き方の奥義を極めることはそんな単純なことではないというお叱りが聞こえてくるようであるが、良寛の生きた時代より600年をさかのぼり、戦乱と圧政に苦しんだ民衆にとって、専修念仏により衆生済度(誰でもが救われる)を説いた法然の教えによりどれほど多くの民衆が救われたことか。飢饉に苦しむ民衆にとってはたとえ一合の米でも命に代えて貴重なものであったに違いない。だが、それよりも大切なことは心の安寧であったのではなかろうかと思っている。

  確かに良寛の生き方には様々な矛盾がる。良寛という人は世の中の道理というものが理解できなかったのではないかと思う。
「良寛禅師奇談」に出てくる中で、ある人がお金を拾って大変喜んだという話を聞いた。そこで良寛は自分が持っていたお金を放り出し、それを拾ったがさっぱり嬉しくない。何回か繰り返すうちに本当にお金がなくなってしまった。そこで大慌てに慌てて探したところやっと見つかった。その結果、人の言うのは本当で、やっぱり嬉しいものだ悟るのである。
  この場合も拾うことが嬉しいではなく、思いがけない臨時所得にありついたことが嬉しいのであるが、良寛にこの道理がわからないらしく、この種の話がたくさんあり、これが「奇談」となっている。

  しからば良寛はまったくのアホかと言えばとんでもない。良寛の残したたくさんの詩を見ると、到底われわれ凡人の及ぶところではない。ただ、良寛は「われの詩は詩にあらず」と言っており、いわゆる詩人の詩ではないということである。しからば何の詩かといえばそれはあくまで自分に向けたもので、多分良寛の心のかげりを詩作によって拭い取っていたのではないかと思う。

  良寛の残した詩歌は漢詩の形態のものや短歌の形態のものが主であるが、良寛の嫌ったものに、「詩人の詩、書家の書、膳夫の調食」だと言われている。これは良寛の「三嫌」として有名だそうである。
 詩歌の良し悪しを論ずるほどの人間でもないので、とやかく言う資格もないが、一般的に詩歌とは森羅万象を格調高い情感を持って表現するものと考えており、その詩を読む人への共感を呼び起こすものと考えていたが、良寛の詩を見ると、それはあくまで良寛自身の内面に向けたもので、他人を意識したものではない。

  良寛は心の葛藤や迷いを詩を作ることにより解き放とうとしていたのではないかと思っている。これらの詩を読むとあたかも体内の血液までが浄化されたような気分になるのである。

  また、良寛を語る上で、残された数多くの書がある。書となると、私ごときは嬰児にも劣る知識も持ち合わせていないので、なおさら語る資格もないが、良寛の書と云うのはいわゆる能書家の書とは一味も二味も違うようだ。
  松本市壽さんの「良寛」にも書かれているように、良寛は幼少の頃から能筆ではなかったらしい。特に楷書の書では、ド素人の私でも「これが良寛」かと思うよな遺墨もある。もっともこの価値を理解できないところが、私がド素人であることの所以かもしれないが。

  良寛の書は今風の段落や行間に決まりと言うものがなく、しかも右へ左へとうねっているのである。当時「寛政異学の禁で江戸を追われた儒学者で、有名な書家でもあった亀田鵬斎(と言う人)が訪ねて親交をもった」のであるが、「鵬斎は越後がへりで字がくねり」と川柳で風刺されるほど、その書風は良寛の影響を受けて大きく変わっていったと言うことである。これは何も良寛が故意にくねらせたのではなく、気分の赴くままに書いた結果であろうと思う。

  良寛が嫌った三嫌以外にも、良寛は物事の精神をそっちのけで、形骸化した形式だけに拘るものは全て嫌いだったようである。良寛のこの心を端的に表した逸話の中に茶席のことがある。
  「師(良寛)がかつて、茶の湯の席に列することあり、いわゆる濃茶なり。師が飲み干してみれば、次客席にあり、口中含むところを碗に吐きて与う。その人、念仏を唱えて飲みしと語られき」。良寛はもともと禅宗の僧であり、茶道の何たるかを知らないはずがない。

  本来、利休によって確立された侘び茶とは、自然の流れの中で、一切の拘りを持たない時間と空間の中で、客を遇することであり、そこには何らの作為もないのが本質であるはずである。その作為を弄さないところに、侘び茶の所作が確立された筈である。それが、家元制度が確立するのに伴い権威と作為の権化のように変貌したことへの良寛の痛烈な批判であったと考えている。

  茶道の回し飲みでは多かれ少なかれ、唾が混入するのは避けられないこと。しからば、同じ事であっても、一旦口に入ったものを戻したものでも有り難がって飲めるか、と言う良寛の問いかけではなかったかと思っている。

  このことは茶道に限らず、初心を忘れて立身出世の象徴にまで変貌していった、当時の仏教界に対して同じ事で、「僧伽(そうぎゃ)」という長詩のなかで僧のあり方を徹底的に、追求している。(00.10仏法僧)