サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

37.良 寛1

 最近、松本市壽さんという方の書かれた「良寛」という本を読んだ。いわゆる僧良寛のことを書いた本である。私ごときが書評をするなどおこがましいことであるが、良寛の真髄を著した名著だと思う。何が名著であるかと言えば、良寛に関して足してもいないし、引いてもおらず、最も良寛の生き様に対して適切な記述になっていると思うからである。

 それなら私が良寛について詳しく知っているかと言えばノーである。そんな人間が真髄云々と言うのも出すぎた言い方であるが、この本を読んで良寛を知る上で最も自然に理解できたからである。

 この本は良寛の代表的な外護者(庇護者)であった越後牧が花(現西蒲原郡分水町)の名主、解良(けら)家の十三代当主解良榮重(よししげ)によってかかれた「良寛禅師奇談」を下に書かれた本であるが、良寛を理解する上でまたとない名著だと思っている。

 もっとも私が良寛と言う人の名前を知ったのは小学生の初等頃のことで、それも絵本か漫画で見た程度の知識しかもっていなかったのである。その時の印象では子供心にもなんとも馬鹿げた大人という印象だけで、その後、一休禅師や雪舟ほどの興味を持つことはなく現在に至っているのである。

 近年になって図書館で手にした良寛について書かれた本を再び手にすることがあったが、この本で知ったことは良寛と言う人はもともとは越後出雲崎で佐渡金銀の陸揚げを取り仕切る町方名主、橘屋山本家の総領として生まれたということであった。それがなぜ坊主になったかと言えば、橘家の昼行灯と言われるほど、どうしようもない「木偶(でく)の坊」だったということで、家業になじめず家出をし、そのまま髪を落として出家したいわば今風に言えば人生の落伍者であったのである。

 良寛(幼名榮蔵)の出奔後、出雲崎港の自然条件が変わった(砂の流入で港としての機能を失う)とは言え、橘屋中村家は没落の一途をたどり、当主以南(父親)の自殺、やがては所払いのとなるのである。この経過を見ると良寛と言う人はまったくの無能で、無責任きわまる人間に思えてくるのである。

 更にその本には、良寛は74歳の長寿を全うし、死後その褥の下に40両を越す大金があったというのである。これを読んだとき、良寛と言う人は単なる無能だけではなく、悋気でもあったのではないかと思ったのである。実家は己の意気地なしのために所払いを受けて、当然のこととして生活にも困窮していたろうに、自分は乞食(こつじき)行をしているとはいえ、それだけの金があるなら、何故死ぬ前に使おうとしなかったのか、良寛と言う人の人間性に嫌悪を抱くほどであったのである。

 出家後は備中玉島の曹洞宗の名刹、円通寺の国仙和尚に随行し諸国行脚の後、円通寺の雲水として厳しい修行生活に入り、十一年後「印可の偈(雲水の修了証書)」を授けられ、円通寺の一角に一庵を設けて庵主となることが許されたのである。
 ところが良寛にとって不幸だったのは、文字通り師であり、父とも仰ぐ国仙和尚の死により運命が大きく変わってしまったのである。国仙和尚はこの良寛のことを「まるで愚者のようであるかに見えるが、その道心の広大なることは、あたかも大海の波のように自然の理法にかなっている」とその悟境を認知して、大愚良寛と法名をつけたといわれている。

 ところが国仙和尚のあとを継いだ玄透即中はいわゆる能吏であり、後に曹洞宗本山の永平寺に移り、焼失した伽藍の再建と荒廃した永平寺を再興した曹洞宗中興の祖とも言われる人だったのである。このような能吏に良寛のような「怠け者」と合うはずがない。たちまち追われるように円通寺を去り、再び諸国行脚の後、立ち戻ったのがなんと生まれ故郷の越後であったのである。

 人間いったん志を得て、家を出たなら、たとえ立身出世をしないまでも人に顔向けできないかたちでおめおめとふるさとなどに帰れるものではない。まして親も家族も見捨てて出家したものが何で恥ずかしくもなく帰れるものだと誰でもが思うところである。

 結局、良寛は曹洞宗の禅僧としての禅師号を受けることもなく、住職となることもなく、しかも戻ったところが浄土宗系の寺院である国上山国上寺の一角にある五合庵という小さな庵に住み着いたのである。
 もちろんここに至るまでには様々ないきさつがあったと思われるが他宗の僧を受け入れた背景には先ず破門同様に追われた良寛に対する曹洞宗側の差配があり、方途を失った良寛に対する外護者達の庇護があったことも事実であろうが、それにも増して、いわば破戒僧である良寛を受け入れた越後蒲原地方の人と風土であったのかもしれない。

 立ち戻った良寛は乞食行といえば聞こえはよいが、簡単にいえば物乞いをしながら糊口を凌ぎ、近在の村々を回って過ごしたのである。良寛と手毬、良寛と子供たちについてはよく語られるところであるが、近在の農民は苦しい農作業のさなか、子供と戯れ、物乞いをしながら生きていく良寛の姿を快く思わなかった人もいただろうと推測される。

 この事については水上勉氏が「蓑笠(さりゅう)の人」と言う本で、厳しく非難しているとのことであるが、読んだこともないので、松本一壽さんの本に書かれた引用を再引用する。

 「禅僧には托鉢、乞食と言う生活方法があって、それも信者から与えられるのを前提にしての方針だろうが、飢餓兇荒時は、何ほどかの百姓の地獄を這いまわる眼が布施を受ける側の眼にもはね返っていなければ人とはいえなかろう。(中略)良寛さまが飢饉の年もぶらぶらして暮らし、時には農家で酒をよばれ(中略)畦を枕にうたた寝し、朝から子供たちとあそんですごしているうちに、日が暮れたとするなら、百丈禅師(中国禅の慧懐禅師、『一日作さざれば一日喰わず』と教えた日本禅の源流)に大喝を喰うことはうけあいである。」(00.10仏法僧)