サイバー老人ホーム

351.理屈と実践

 歳を取ると頑固になると昔から言われてきた。文字通り歳を取って、この言葉が真実だという事を身をもって感じている。この頑固と云うのは、拘りが強くなったかと云うと、そうではないようである。

 昔から、「手八丁口八丁」と云う言葉があるが、自分で云うのもおこがましいが、どちらかと云えば口の方より手の方が先に動く方であった。そういうと何となくDVの感じがするがそうでもない。皆無かと云えば、過去に一度ぐらいそんなことがあったような気がするが、晩年になるに従いこの種の事は無くなった、と云えるかもしれない。

 ところが、最近は肝心の足はもとより、手の方がさっぱり云う事を聞かなくなった。こうなると、口の方を動かそうとするのだが、もともとそれほど能弁ではないので思うままに回る筈もない。いきおい気性の方が先走るから頑固さが顔を出してくることになる。

 そもそも、人間が生れ落ちて、日々成長と共に頭脳も成長するのは道理である。始めは、本能的な事が知らず、知らず習慣と成り身についていく。やがて、生活の中の様々な動作が、ある時は視覚や、言葉を通して覚え、やがて、これ等が知識となって広がっていく。

 そして自らの判断で、その必要性を自覚し、工夫するようになる。この工夫が知識の大部分と成りさらに拡大してゆく。ただ、これが無限に拡大するものではない。最大の障害は年齢かと云うとそうではないようある。

 今までにも、何度か取り上げた詩人サミエル・ウルマンの云う若さの喪失であろうか。即ち、「優れた創造力、逞しき意志、燃ゆる情熱、怯懦(きょうだ=ひるむ)を却(か)ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心」が、いつの間にか欠け落ちて来たのかとつらつら考えて見ると、人に自慢するほどのものを持ち合わせた訳ではないので、特にどれが欠けたという意識はない。

 されどそこをかき分けてみると、事物を考える意欲が漠然と亡くなったような気がする。これこそが老衰そのものだと云われれば、成るほどとうなずかざるを得ない。然らば、この状態に導いた原因は何であったかと云うと、欲望が湧いてこなくなったとしか言いようがない。それほど自己満足しているかと云うと勿論違う。そこで、ウルマンが云うさまざまな意欲を奮い起こすにはどうしたら良いか干からびた頭を絞って考えてみた。

 物事には、どんなものでも、その存在を示す「理論」と、それを証明する「実学」と云うのがあるらしい。「理論」とは「個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系」という事で、対する「実学」とは「事実・経験・実践などを重視する教育思想上の立場」という事らしいが、私如き無知な老人には、「理屈」と「実践」と云った方が分かりやすいかもしれない。

 毎日の生活の中で、この実践の意欲が無くなってきたのが最大の原因のような気がする。その結果、愚にも付かない屁理屈を並べるようになったような気がする。

 ここまで考えて、ふと思い出したことがある。これも前回の「楽しい事」で取り上げた社会学者上野千鶴子さんの事である。と云っても、この社会学と云うのが如何なる学問かそれすらも分からない。

 そこで早速、Goo辞書を牽いてみると、社会学とは、「人間や集団の諸関係、特に社会の構造・機能などを研究対象とする社会科学の一分野」という事で、人間社会の全体の仕組みを考える学問という事になるだろうか。従って、上野千鶴子さんなどと気安く呼べるようなお人ではなさそうである。

 早速図書館に行って上野千鶴子さんの作品を探してみた。ところがなかなか見つからない。インターネットで探すとおびただしいほどの作品がありながらこれは一体どうしたことだ。とにかく、図書館の係員に云って、ようやう「ひとりの午後」と云うエッセイ集を借りてきた。読みはじめつと、成るほど人間社会の仕組みを考える学者だけあって、あらゆることについて精通されているようである。そう思いながら読みふけっているうちに私が云う「理屈と実践」についての混乱が蘇ってきた。

 この先生、私よりは一回り位若年だが、私と奇妙に符合する点がいくつかある。と云って、私と根本的にかけ離れているのは、頭の良さは私などが比較の対象にすることすらおこがましい頭脳明晰な方である。それならば、どんな共通点と云えば母親に対する親愛感がほとんど感じられない。一般的には、父と母に対する親愛感はどちらかと云えば、母親に対して深く感じているのではなかろうか。取り分け女性では・・・・・。

 実は、私の母親も、「口八丁手八丁」であったらしいが、私の物覚えが始まったころから度を越した「口八丁」であり、それに対して父親は、どちらかと云うと「手八丁」であったかどうかは別にして、黙して語らずという人であった。この両極端の二人を見ているうちに、いつとはなしに母親に対する反感が強まっていった、と云うところが似ているという事である。

 一方、この先生は父親が医師の家庭に育った一人っ子で、私のように九人兄弟という大家族で、しかも戦前戦後を貧困の極致で育った家庭環境などとは根本的に異なり、豊かな家庭にぬくぬくと育てられた才媛だったようである。

 尤もこの貧困についてもこの「雑言」のどこかで書いた記憶があるが、我が家の貧困が飛び抜けた貧困だったことに気が付いたのは五十代のそろそろお金とか、地位とかの言葉も忘れかけ始めたころある。と云うのは、私が子供だった戦前戦後の時代は、どこの家でも貧しかったと誰もが云い、誰もがそう思っていた筈である。従って、貧しい事自体を恥じることなど少しも思っていなかった。ただ、極度に貧しかったというだけである。

 上野先生のお歳や、医師のご両親に育てられた環境を考えながら「ひとりの午後」を読むと、何とも言いようもない世間知らずの女に見えてくる。勿論先生は学者であり、学者としての立場から「ひとりの午後」を論じて居られるだろうか、「理屈」と云うのは「実践」の裏付けであらねばならないはずであり、さもなければ単なる屁理屈という事になる。

 例えば、「還暦」の項で、「いつかは必ずひとりになる。早いか、遅いかの違いだけである。それならば、そんなに遅過ぎない内に一人になった方が再スタートはやりやすいかもしれない。事実、六十代で最愛の夫に先立たれた友人は、夫の死後もそれまで以上に活躍している」と云っている。だから早く別れる方がいいという事にはなるまい。老いは、人生の終着点であり、そこまで互いに支え合って生きてきた数々の思い出は生半可に生きた人間には計り知れない味わいがある。

 また「上野さんは打たれ強い」に対して、「生まれつき、打たれ強い赤ん坊なんていない、何も好きで強くなったわけではない。人は学習と経験から性格を形作る。批判と応酬が渦巻くこの闘技場に長年身を置くと、確実に性格が悪くなる」という事である。

 人間は、人間が考えた理路整然とした理屈だけで生きていけるとでも思っているのだろうか。宗教までとは言わないが、人間の行動には根本的に精神とか心情と云うのが裏打ちされていて、その精神をより高めるために触れ合い、語り合い、愛し合うのであって、理屈を並べて相手をねじ伏せればそれでよいという事にはなるまい。

 この方、以前はパートナーと称する異性と同居していたようだが、今どうなっているか知る由もない。私も体の一部はとうの昔に用済みとなったが、最近は全ての事物に方向音痴なカミさんの道案内として多少とも役に立っているので、これからも「あっち向いてぽいっ!」にならないように下手な屁理屈など並べぬように気を付けようと思っている。

 昔から、「百日の説法屁一つ」と云うことわざがあるが、実践と云うのは、尤もらしい理屈を乗り越えて存在するものではないかとしみじみ思った次第である。(12・05・15仏法僧)