サイバー老人ホーム

317.リハビリ自慢

 子を持つ親心を差した諺に、「這えば立て、立てば歩めの親心」と云うのがある。生まれたばかりの子供に対し、親心とは、見栄の良し悪しや、頭の良し悪しなど関係なく、とにかく丈夫に育ってくれたと云うのが偽らざる本心であろう。

 ところで、この「雑言」でも以前何回か取り上げたが、私が脳梗塞による身体障害者になって、今年で十二年目に入る。この「這えば立て、立てば歩め・・・」は、過去十二年間、私の日常生活で常に頭から離れない課題であった。同時に、回復の過程は、私にとっては親以上に自慢のタネであった。

 一口に十二年間と云うが、並大抵ではない十二年間で有った。そもそも発症したのが、平成十三年、半年間の入院の後、リハビリのため市内の病院に三年程通院し、指導を受けたが、小泉改革により病院を追われることになった。

 その根拠は、脳卒中による後遺症は、発症後の六カ月の急性期はリハビリ治療は有効だが、それ以後は効果が少ないと云う理由であった。これは発祥以来最大のショックで、僅かに残された、生きていく可能性まで奪われた思いであった。

 仕方ないので、退院後も毎日、家で自己流にリハビリを続けていたが、これを続けて行く以外に仕方ないと思って、休日を除いて毎日自己流リハビリを続けたのである。

 その内容たるや、朝飯が終わると、先ず傾斜台に十五分間乗って、足首の先が下がるのを何とか改善しようとした。この傾斜台と云うのは、足首を前方に持ち上げるもので、入院中の理学療法士から聞いて、木工好きな友人に仰角23度の傾斜台を作ってもらったものである。

 それが終わると、滑車を使って、両腕を引き上げるもので、当時はどこのリハビリ病院でも使っていた。次が、ゴム紐を使ったエキスパンダーを窓枠に取り付け、麻痺側の腕の屈伸である。ただ、これは後に逆効果があると云う事で止めにした。

 以上の室内のリハビリを30分ほど行ってからいよいよ戸外である。我が家の近くに、長さ50メートルばかりに児童公園があり、これを十往復するのである。

 更に終わってから、飛び石に使っていた土管を伏せた台に腰を下ろし、手を使わずに立ち上がる動作を十回、それが終わって、ブランコの廻りの鉄柵に沿っての横歩きを往復十回、そして、これは毎日ではなかったが、公園の横に有る九十段の階段を一往復と云うことで、午前中はほぼリハビリに終始した。

 これだけのメニューを発症後、約7〜8年続けてきたのである。その結果、退院時は杖にすがって辛うじて歩行できるのが、何時の頃から、杖も使わなくとも歩行できるようになった。これは、紛れもなく、急性期以後に回復したもので、その割合は、急性期の頃を二とするならば、その後、七までに回復していたと実感した。

 若し小泉改革までで打ち切っていたなら、おそらく、機能回復はおろか、私の人生もそこまでだったかもしれない。

 それならば、私がやってきた事が全てよかったかと言えば、そうでは無い所に脳卒中による後遺障害の難しさがある。

 けが等による後遺障害は、ある程度行け進めの反復訓練で回復する場合もあるが、脳卒中の場合は、運動の根源である脳神経細胞が、脳卒中により壊死した事により、命令系統が途切れた事に有り、これを余った脳細胞を使ってつなぎ合わせる事にある。

 更に、人の体には痙性(けいせい又は痙直ともいう)と云う最も原始的な動きがあり、これを調整しながら回復させると云うのが今の理学療法の形である(別掲雑言:67.リハビリテーション参照)。 その為、行け進め(目指せ甲子園)と無暗に歩きまわっては、逆効果であると云われている。

 従って、自己流ではどうしても限界であったが、今年になって大幅に改善することがあった。そのきっかけになったのは、昨年十一月に、それまで使っていた装具が壊れたことがきっかけであった。装具と云うのは、下肢の不具合を補うための道具で、一般的には硬質プラスチックでできている。ところが、この装具、靴をはいて外出する場合は、至極具合が悪い。麻痺側と、健側と靴の大きさを替えなければならないのである。

 これを解決するために、かつて読売ジャイアンツで活躍していた吉村選手が試合中大けがをし、長いリハビリの後、使ったと云う軟質プラスチック使った装具を見つけ出し、これを使うようにした結果、左右別サイズの靴をはく事はなくなったのである。通常の装具だと、せいぜい三年ぐらいの寿命だったが、私の場合は十年も持った事になる。

 この大切な装具が壊れてしまったので、病院に行って、作り直したのであるが、これが、たまたまうまく行かず、困っていたところ、装具メーカーら示されたカタログの中に、「ゲートソリューション」と云う装具を見つけたのである。

 この装具は、麻痺側の足首が下がってしまうのを防ぐため油圧のクッションが付いているのである。と云っても、健常者には分かりにくいが、脳性マヒの特徴として、足首の先が下がってしまうため、足先が僅かなでっぱりにも引っ掛ってうまく歩けないのである。これを補うために、初めから足首を固定的に押し上げているのが一般的な装具である。

 これを油圧で押し上げているため、押し上げ圧力には柔軟性があり、しかも、麻痺の状態により調整できると云う優れものである。ただ、費用的には、一般の装具に比較して三倍以上もして、役立たずの身になった今となっては、いかにも心苦しい。ところが、恐れ乍と、申し出たところ、あっさりと承認されたのである。承認された最大の理由は、私の体が「ゲートソリューション」を使える体迄に回復していると云う事であった。

 更に、その時の担当医師から、「最近、ボツリヌス療法という新しい治療法が開発されて、昨年から保険適用が認められるようになった。あなたの回復状況から、この療法を適用した場合、もう少し回復できると思うが、受けてみる気があるか」と云われたのである。

 勿論、一も二もなく「受けてみたい」と答えた。このボツリヌス療法とは、食中毒の原因菌であるボツリヌス菌が作り出す天然のたんぱく質ボツリヌストキンを有効成分とする薬を硬直した筋肉に注射すると、一時的に(3〜4ヵ月)筋肉の緊張を和らげる事が出来るので、その間に、リハビリを行い、正常な運動を身に覚え込ませると云う療法である。
 斯くして、七月中旬に、下肢ふくらはぎに合計十カ所、上肢に二カ所の注射をされ、七月下旬より二週間の入院をしたのである。

 今回の入院ほど楽しい入院はなかった。云う迄もなく、身体的な苦痛は全くない入院であり、不敬ながら、暫く御目にかかる事もなかった、若くてきれいな看護師や、療法士のお嬢さん方に文字通り手取り、足取り指導される毎日であった。

 その結果、最大の効果は、それ迄、健側と、麻痺側の体重負担は七・三程度であったのが、退院時は六・四までに回復していたのである。僅か一程度であるが、これは、過去十二年間の中て、最も苦しんでいたことであり、私にとっては何よりの回復であった。

 その後、十月に入ってから、二回目の注射を受け、週一回の通院のリハビリを受けている。その後回復はさらに進み、担当理学療法士から、「歩行の際の動作分離が出来るようになれば、ほぼ正常に戻った事になる」と云われ、日夜励んでいる次第である。

 以上が、身体能力回復までの過程であるが、脳卒中麻痺の場合、これだけではなく、生活力の回復と云うのがある。こちらについても聊か自慢話しになるが、もともと、私は右利きだったから、発症時は三度三度の食事の際に箸を持つのも大変だった。

 最近は、こうした身の回り品も使いやすい商品が多く開発されていて、すぐに生活に困ると云う様な事はないが、利き手の左手の爪を摘む道具は私が図面を引き、友人に作ってもらった。

 ただ、それだけで生活できればよいと云うものでもない。身体障害者は、好むと好まざるとに拘らず、行動範囲が狭くなる。

 これを補う物は自動車である。発症当時は、これで好きな車の運転はおさらばかと考えたが、入院中に医師から可能だと教えられた。

 退院した翌月には、補助される同額程度の改造を行い、明石市の運転試験場の赴き、運転能力の確認をしてもらったのである。そして、その月の終わりから、車庫の出し入れを何回か繰り返し、翌月から、休日の日に、娘に横に乗ってもらって、近くの人気の少ない住宅開発地で、路上運転を繰り返し、二月から一般道路に出るようにしたのである。

 更に、発症前に通っていた趣味の油絵を再開し、月二回、神戸三宮に通うようにしたのである。油絵については、発症前に宝塚市展に入選したが、発症後も入選し、右左の手で画いたそれぞれの絵が入選したのは私だけだろうと密かに思っているのは私だけであろうと云う事は、以前、「雑言」のどこかに書いた記憶がある。

 最近、ペタンクと云う競技に夢中になっていて、スポーツに関するものは全てダメだろうと思っていたのが、僅かに、可能性が見えてきたのは何よりもうれしい。加えて、「雑言:316.自作製本出版設立」である。

 これだけかと云えばさにあらずである。そもそも脳卒中云うのは、若かりし頃からの不埒な生活が起因していて、私に場合、症状は、高脂血症、高血糖による。従って、この大本を改めないと、再発する恐れが非常に高い。これを改めるには、食生活を根本から改める必要があった。これは、身体能力のリハビリ以上に大変である。結局、自分の嗜好と味覚で食事をする事を放棄した。

 更に、高血糖の場合、そうしたからと云って完治するものではない。リハビリを受けた病院に内科もあったことから、十一年間にわたって、三カ月ごとに血液検査を行い、食事療法の妥当性と、投薬を受けてきたのである。

 なぜそこまでするかと云うと、この年になって、更に生き続けたい願望があるわけではない。ただ、もう一度再発した場合、再度立ち直る自信がないのと、そうなったら私の周りに多大の迷惑をかけると懸けると思ったからである。

 聊か自慢話めいたが、自慢話と云うのは、決して聞き良いものではない。従って、これまでは、意識して避けてきたが、今回は、役立たずの身になりながら、多大の福利厚生費を使った事を反省として例外として認めてほしいと思ったのである。

 なぜかと言われれば、リハビリと云うのは、人より優れた状態を望んでいる訳ではなく、普通の人が、ごく当たり前に持っている肢体の能力に少しでも近づけたいだけであるからである。従って、担当理学療法士の「動作分離が出来れば」の発言は、何よりの激励となった。(11.12.1仏法僧)