サイバー老人ホーム

237.離縁状

 近頃、熟年離婚などといわれ、家族を、家庭を守り通してようやく予約安住に地にたどり着いたと思った途端、「我が愛する女房」は荷物を纏めて、「はい、さようなら」などと言う話をよく聞く。

 ところで、江戸時代、女性の地位と言うのは、きわめて低いものであったと言う事は前々から聞いていた。ただ、実際にはどのようなものであったかと言うと、是も男の身勝手なのだろうが、余り知られていない。

 世に、テレビ、映画、小説といろいろあるが、いわゆる高貴なお方や、それを取り巻く女性たちの事は多く取上げられているが、いわゆる、熊さん・八っつぁんの女房など、民百姓の女たちの事が書かれた文書と言うのは極めて少ない。

 そもそも、江戸時代に「宗門御改帳」と言うのを毎年、書き改めている。この「宗門御改帳」は、江戸時代の戸籍簿見たいなもので、民百姓すべて仏教寺院の檀徒でなければならないという寺請制度によって、毎年、各村ごとの名主などによってつくられ、檀那寺の下に,家族単位で一人ひとりの氏名と年齢が記入されたものである。

 この、「宗門御改帳」を見ると、主の名前は勿論であるが、息子、娘の名前はあっても、女房については、「同人女房、同代官所○○郡○○村何某娘、女房○才」と帰されているだけで、名前の記載がない。

 即ち、女房と言うのは其の旦那の所有物で、主の名前を示せば、それ以上のことを記す必要もなかったと言うことだろうか。

 江戸時代、士農工商の身分わけされていた事は誰でも知っているが、武家階級であっても、士卒に分かれており、お目見えと言って、所謂殿様に拝謁できるものを士、すなわち正式な武士であり。それ以外は、卒と言うことで、平たく言えば足軽と言うことで身分軽きものと言うことに成る。

 そもそも、奥方の呼び方であるが、緻密な時代考証による社会制度や風俗の正確な描写には定評がある作家佐藤雅美さんの作品によると、奉行所与力の女房は奥様、同心の女房は御新造、普通の男にいたってはおかみさんと呼んでいたらしい。

 従って、与力は士であり、更に上に行くに従って、御内室、更には北の政所と成る。ここら当たりは、我々下々には関わりが無いが、然らば、長屋の熊さん、八っつぁんなどの女房はどのように呼ばれていたかといえば、佐藤雅美さんに寄れば、おかみさんと言うことになる。

 それならば、百姓の女房もおなじかといえば、おかみさんと言うのはどうもすっきりしない。
 私の子供の頃、「お方」と言う呼び方が、亭主からも回りからも使われていた。このお方と言うのを辞書で調べると、「貴人の妻妾や子女の敬称」と言う事で、百姓の女房の呼称にはそぐわない。多分ふざけ半分の呼称であったのかもしてない。

 山田洋二監督の、「たそがれ清兵衛」で丹波哲郎さんのおっつぁまが、「(女なんて)顔なんかついていれば良い、尻がでかく、沢山子供を生めばいい」などと言っていたが、当時、嫁を褒める言葉として、肩幅が広く、骨惜しみ無く働く事といわれ、男の考え方と言うのはこの程度であったかもしれない。

 私の子供の頃でも、「そんな体では力仕事など出来まい」などと言って、村人の間には、一人前の働きの標準が決まっており、男なら、一日に一反の田を耕すか、米一俵(十六貫=60キロ)以上担ぐことが条件とされており、女は、十三歳で十貫以上(40キロ)を担いで一人前(褒められる)といわれた。

 ところで、当時の女性の宿命は、誰かに嫁ぐと言う事に成るが、是はどちらかと言うと幸運と言うことになる。

 百姓家に嫁に行った場合、田畑を耕すことは男の仕事であったが、種まきや植え付けは女の仕事であって、取り入れ後も女の仕事である。

 収穫したものを、一年を通じて食い繋ぐのは、女の重要な責任であり、これをしっかりやり通した者を締りがある嫁と言う事になる。米(こめ)櫃(びつ)を預るのは勿論主婦の役目、「不時の人寄席(ひとよせ)が有った時、米や味噌が無かったりするのは主婦の恥」であった。

 このほか家族の衣服に関しては、糸紬から始まって、機織染色、縫製と総て主婦の役目、しかも、夕飯後には夜なべと称し、縄なえなどの藁仕事、麻や木綿の糸引き、石臼を回しての粉挽きと休む暇も無く働いた。

 これほど過酷な労働を強いられたが、それでも、嫁の貰い手もあったと言うことは、女性にとって幸せであったろう。ただ、「御祝儀(婚礼)、結納、みつめ祝い(見合い)などの祝い事には女衆を呼ばない」と言う記録が残っていて、女性が、唯一華やかな場に登場するのは、自分の婚礼の時だけであった。

 江戸時代、このような過酷な生活を強いられた女性たちが、今と違って、自ら夫に対して離縁を申し出るなどと言う事は出来なかった。

 一般に知られている三行半(みくだりはん)の離縁状は、あくまで夫側から出されたものである。最も簡単な文面は、

 「○○こと我等妻女に御座候処(ところ)、此の度相談の上離縁いたし候処実証也(じっしょうなり)、然る上は何処(どこ)へ縁付き候えども、差し構え御座無く候、後日の為、離縁状よって件の如し」となる。我等とは、自分の事を「おいら」と呼ぶようなもの、また「実証也」とは、証文等の決まり文句である。

 ただ、ここまでこぎつけるまでには大変な手数を踏んでいる。一旦嫁入りした女性は簡単に里帰りなど出来ない。従って、夫婦仲が不仲になった場合でも、今の時代のようにすたこらさっさと逃げ帰るなどと出来ない。離婚理由も、もっぱら、夫側の理由であり、子が生まれない、働きが悪い、体が弱い、大飯を食う、などである。

 今流行の不倫(密通)などと言うことは、とんでもない事で、江戸幕府の刑法法典とも言える「御定書(おさだめしょ)」には、
 
「密通いたし候妻   死罪、密通の男   死罪」と言う事で、密通すなわち不倫の男女ともに、首を切られたと言うことである。

 ただ、女性側が、離縁をしようとした場合、駆け込み寺に駆け込み、離縁をすると言う手がある。 但し、駆け込み寺と言うのは、上州勢田郡新田庄の徳川万徳寺と、相州鎌倉の東慶寺だけである。

 女性が、この寺に駆け込み、夫側と話し合い内済(示談)によき離縁する「内済離縁」と、夫側が承諾しない場合は、寺法により、女が足かけ三年、在寺禁足することで、強制的に離縁状を差し出させる「寺法離縁」による場合とがあったということである。
 
 勿論、「内済離縁」の場合は、結納金、嫁入り道具、もっと厄介な事は、子供がいた場合の処置など、紆余曲折したに違いない。ただ、頑強に離縁を拒絶された場合、寺社奉行に訴え出て、その「お声掛かり」で離婚成立と言うことであるが、果たしてどれほどの実績があったかは分からない。

 女性が封建制度の下に虐げられていたのは、江戸時代までさかのぼらなくとも、つい5〜60年前まで続いていた。それにしても、近頃、女性の権利が拡大したと言うのか、男の立場が情けなくなったと言うべきか、世は逆さまになったようで、これを喜んで良いのか、悲しむべきか我輩も微妙な年を迎えているのである。(08.03仏法僧)