サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

43.ペロ逝く

 我が家の愛犬ペロが逝った。昨日17日、午前中娘宅で用事をして、午後1時半に帰宅してみると様子が変である。触って見ると反応がない。かけてある毛布をめくり、胴の部分にふれるとまだぬくもりがあるが、呼吸はしていない。
 三日前に娘から言われて再び家の中に戻したのである。それ以来、安心したのか鳴くこともなく、ほんの少しスプーンで口の横から入れてやるミルクを飲む以外は食べ物も食べず、ひたすら眠り続けて三日目の朝を迎えたのである。今朝でがけに頭をなでたときもかすかに反応があったが、その時の姿勢のままで死んでいった。
 毛布を更にめくると足元に「ホッカイロ」が二つおいてあり、これを見たとたんに無性に泣けてしまった。ペロが間もなく死ぬことはもうだいぶ以前から覚悟はしていた。覚悟はしていたが、無性に泣けたのである。これはペロの死に対する悲しみではなく、ペロと対した私の行為の中でやはり悔いの残ることもあり、そのことへの慙愧の気持ちであったような気がする。その点、家内には感謝している。
 ただ、どうあろうとも人間とペットの関係であり、けじめをつけなければならないこともあったのである。市役所の担当課に処置の依頼したところ、3時頃までに引き取りに行くというのである。死後の処置についても近くにペット霊園もあるがこれは始めから考えなかった。ペロに対しては生前に十分に可愛がり、ペロも十分に生きたのである。無情と思われるかもしれないが、それが人間とペットとの関係だと思っている。
 それにペロは死の直前に最後の排泄をしたらしく、タールのような排便をしていた。不思議なことに前日まで普通の「コロコロうんこ」をしていたのである。最後の排便の中にもこの状態のものが混じっており、それもかなり力をこめて排泄したようで、体から離れているのである。結局ペロは家族から受けた全てのものを使い果たして、文字通りの「抜け殻」となって死んでいったと思っている。断食をすると最後は同じような排泄をすると聞いているが、まさに、高僧の入寂の感がするのである。
 昨日、娘が最後の「見舞い」に来てくれたそうであるが、帰るときなぜか鳴いたそうである。ここ4日程は泣き声も立てなかったのであるが、不思議なことである。もっともペロにとっては娘などは飼い主とは思っておらず同輩と思っていた節がある。それが同輩に対する最後の別れの挨拶であったかもしれない。
 ペロは私がペットショップから買ってきた犬で、家内には出先に電話で知らせたが、最後の始末も私だけがすることになってよかった思っている。ペロの最も好きだったチーズとボールをペロの遺体と一緒に毛布に丁寧に包み、ペロの場所であった「三角窓」の近くの花壇に咲いていた菊の花を一輪手向け、ダンボール箱に収めて市の係りの人に引き渡したのである。この際、ペロの最も威厳の合った尻尾の先端の毛を少し切り取り、後日、ペロの「三角窓」の近くに埋めてやろうと思っている。(ありし日のペロ)

 ペロとのこの一年余りは過酷なものであった。ただ、時間が経つにつれて急速にその思いは消えて、ペロとすごした輝かしい日々のことのみが思い出されるのである。人も動物も別れることは全てを美化していくものである。さらば、ペロ!さらば、天剛号!(00.11仏法僧)