サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

193.おためごかし

 以前、この「雑言」、「貧者の一灯」で取り上げた事があるが、現在、私が参加しているボランティア活動に、パソコンボランティアと言うのがある。

 今から2年前に、公民館が募集したボランティア活動であるが、公民館が企画したパソコン教室の補助講師に、市民のボランティアを募集したところ80名以上の応募があり、そのうち二十数名の中に選ばれたと言う話である。

 当時、独自に特別養護老人ホームの入所者へ絵画指導と言うボランティアには参加していたが、グループの一員として参加するのは初めてであり、正直なところ多少の野心を織り交ぜて、期待と不安が入り交じった不思議な感覚でスタートしたのである。

 あれから、二年あまり、それなりに変化しながら未だに続いている。特養の方は、今年で四年目に入ったが、受講者との気心も知れ、最近では参加人員も増えてきた。

 また、パソコンボランティアの方も、新たに独自企画で近くの公民館でパソコン相談所的なものを定期的に開けるようになった。こちらの方はまだ知名度や、企画そのものがまだ知られていないため、参加人員も少ないが、あまり急激に増えても対応できるかどうか分からないので、まあまあだと思っている。

 ところで、肝心の公民館のパソコンボランティアであるが、従来、NPOに依頼していたものを、グループの自主企画として公民館側に申請したものが認められて、新しいスタイルとしてスタートした。

 これには、会員独自に制作したテキストもあり、しかも高齢者対応と言うことで、従来四日で一コースだったものを五日に伸ばし、「スローコース」と銘打って開催したところこれがなかなか好評で、引き続き開催できる事になった。

 勿論、ここに至るまでは、カリキュラム設定からテキスト制作に至るまでのプロジェクトで推進し、それなりの人と努力があったのは言うまでも無い。

 こう言うと、かなり順風満帆の感があるが、実際は崩壊の危機に晒される一歩手前まで行ったのである。

 その最大の原因は、男社会と女社会の違いではなかったかと思っている。それと言うのも、この二年間の役員、特に会長が男性であって、それがために女性軍との間に決定的とも言える亀裂が出来たような気がする。

 役員選出に当っては、男女の配分には気を使い、会長は最高齢者の男性であれば、副会長は最も若い女性、会計は緻密な女性担当すれば、監査は男性というような配分だったのである。

 ところが、スタートして間もなく、深刻な対立が男女間で起こったのである。内容はそれ程にっちもさっちも行かないような事でも無いが、運営にあたって合理性を追求する男性側と、社交性に重きを置く女性側との差ではなかったかと思っている。

 最初は私も男性側に重きを置いていた。その根底には、二十数名という所帯をまとめていくには、それなりの規制やルールがあってしかるべき、と思ったのである。その点については、会長のH氏は豊富の経験を持っていることでもあり、最適な人選であり、納得のいく旗振りだと考えていた。

 ところが、日がたつに連れ、女性側の離反がはっきりしてきて、極端に参加者が少なくなったのである。その原因は、このボランティアグループの連絡はML(メーリングリスト)を通じて行なう事になっていたが、これとは別に役員用のMLまで立ち上げて、役員間の意思統一はこのMLを通じて行い、いわゆる地均しをすることになったのである。

 この事は、通常男社会の中では日常的に行われており、極めて合理的であると思っていたのである。ところが、このことが引き金となり、女性側の総スカンを食う結果になった。

 その背景には、H氏が極めて有能であった事と、MLでの意見交換のはずが、常にH氏と相対したやり取りとなったことへの圧迫感があったのではないかと思っている。

 ボランティア活動と言うもの、H氏曰く、「あまり肩に力をいれず、地域社会とのコミュニケーションを主体とした「まあいいか」程度に考えるのがボランティア活動参加の極意」と言うことであったが、その実、いわゆる会社並みの合理性と効率性を重んじたものであったような気がする。

 それには、H氏の野心とまでは行かないが、何らかの「斯くあるべき」と言う考えがあったのかもしれない。ただ、この程度の事は男社会では当たり前で、全く何らの意思もなかったら、無能と呼ばれて仕方ないのかも知れない。

 一方、女性側にとっては、あくまでボランティア活動であり、基本的には善意の提供である。そこに、小うるさく様々な規制や、強制を課せられるなどとは全く思っていなかったのではなかろうか。

 ボランティア活動と言うのは、ある種の井戸端会議であって、井戸端会議、または隣組の中には会長もヘチマも無い。いわゆる、善意を提供できる人が自発的にすればよいのであって、その根底はコミュニティ、即ち、楽しみを共有する仲間意識である。

 役員改選にあたり、H氏曰く、「会長たるもの、この講習会に起因して、受講者に損害を与えた場合、その責めを負う覚悟が必要である」などということは論外である。確かに可能性がないとは言わないが、大上段に損害賠償を云々する前に、井戸端会議であれば話をつけることはいくらでもできるはずである。

 また、会社においても、組織が未熟だったり、人心を十分に管理できていない会社に限って、殊更職名を呼び合うことが多いが、およそ女性にとって、日常生活の中で役職名で人を呼ぶ習慣はないのではなかろうか。その中で、お互いを職名で呼ぶ事に対しては生理的な不快感があったのかもしれない。

 昔から、「おためごかし」と言う言葉があるが、その意味は、「表面はいかにも相手のためであるかのようにいつわって、実際は自分の利益をはかること」と言うことらしいが、我々男と言うのは何かをする場合に、この「おためごかし」にいつのまにか慣れきっているような気がする。

 男の場合、目的のためには、ある程度他人を犠牲にしてもと言うところがあり、そのための権謀術策は男の才能とみなされているところがある。

 これに対して、井戸端会議的発想の中では、この「おためごかし」的発想では、瞬く間に爪弾きされるのではなかろうか。

 ただ、いずれにせよ、かつて、H氏が言われた「まあいいか」程度の中での食い違いであり、殊更事荒立てることでも無いような気がしている。それならば、年季の入ったものの度量で、この程度の妥協が出来なければ歳が泣こうと言うものである。

 要は、ボランティア活動と言うのは、高邁な善意の発露と言うよりは、自分の利益とまでは言わないが、自分のささやかな楽しみのための「おためごかし」程度までは許される限度なのかもしれない。(07.06仏法僧)