サイバー老人ホーム

299.公事御仕置き8

 そしていよいよ、最終の御裁きとなり、第百条「御仕置の仕形の事」となる。江戸時代、罪を犯した場合、主刑と付加刑とがあった。

 主刑とは、犯した罪により贖(あがな)うべき刑であり、付加刑とは、主刑の上に科せられるもので、身体刑と云って、体に何らかの負担を強いるもので、敲きがその主であった。

 まず、最も重いのは勿論死罪であるが、その中でも、「鋸挽き」と云うのが一番である。

「一日引き回し、両の眉に刀目を入れ、竹鋸に血を付け、側に立て置き、二日晒し、挽き申すべしと申す者これ有る時は引き候事」となって、まさに身がよだつ思いであが、実際に挽こうと申し出たものはなかったと云われている。

 以下、磔、獄門、火罪、斬罪、死罪、下手人となる。これらの中で、「斬罪」とは、「浅草品川両所の内、町奉行組同心これを斬り、検視御徒目付け町方与力」となっていて、浅草とは小塚っ原刑場であり、品川とは鈴ガ森刑場のことである小塚っ原はおもに東国、鈴ガ森は西国の処刑者に充てられたということである。

 また「死罪」の場合は、「首を刎ね、死骸取り捨て、様(ため)しものに申し付ける」となっていて、世に云う試し切りにされたということである。

 「下手人」は、盗賊にあらざる殺人に対する刑で、「首を刎ね死骸取り捨て、但し、様(ため)しものには申し付けず」となっている。

 前出の、幕末下級武士「山本政恒一代記」によると、藩政奉還後、この山本氏、一時、牢役人を仰せつかり五回ほど斬罪に立ち会っている。この時の様子を次のように書き残している。

 「死刑の言い渡しある時は、前もって沙汰あり、その時は藁縄を以て縛る。さすれば死刑と悟り、相牢の者へ今日鍵(かぎり)に掛かりました。長々と御厄介有難く等礼を述べ、出るなり。

 言い渡しを浮(受け)くれば直ぐに刑場の傍らへ連行、筵の上へ座らせ、牢番の志をもって酒五合・肴一品を与える習慣なり。刑場へは聴取課員出張、牢上番共椅子へ腰かけ検閲す。

太刀取・縄取、番太の内を選び勤む。
用意整いたれば、布にて目を隠し、刑場に引き出し、穴の際に座らせ、太刀取充分に太刀振り上げたれば、縄取首を前へ伸ばさせ、一刀にて首を落とす。パタリと云う音のみ。

 縄取腰を持ち上げ、穴の内へ血を流しいれ、死体は引き取り人あればその物に引き渡し、無き時は桶に入れ、予ねて約したる寺へ送り込む」と、至って淡々と書き残している。

 そして次が、「晒し」である。「日本橋に於いて三日晒し、但し、新吉原の者、所の内にて悪事致し候者、大門口外に晒し」となっている。

 この「晒し」の代表的な罪は、「男女申し合い相果て候者」、即ち心中の場合であって、「不義にて相対死致し候」場合は問題ないが、「双方存命に候はヾ、三日晒し、非人手下」と云うことになる。

 浮世絵などにも、日本橋の高札場に、男女して晒された姿が描かれているが、吉原の場合は、こうした男女の相対死が時々あったのだろう。

 続いて死罪より一等軽いのが追放刑で、その中で最も重いのが、「遠島」である。「江戸より流罪の者は、大島など伊豆七島の内に遣わす。京大阪四国中国より流罪の分は薩摩五島の島々隠岐国天草郡へ遣わす」

 物語の中で、島抜けなどと云う話がよく出てくるが、この場合、「遠島者島にて死罪以上の悪事致し候に於いては、その島に於いて死罪。島を逃げ候者、その島に於いて死罪」と抜け目はない。

 そして、関八州、京大阪、山城、摂津、大和、東海道、木曽街道、甲斐、駿河、日光街道、悪事致し国、生国は御構い地、すなわち立ち入り禁止である。

 以下中追放、軽追放となり、軽追放は、「御構い場所、江戸十里四方、京、大阪、東海道筋、日光、日光道中」となっている。

 「右重中軽とも何方にても住所の国を書き加え、相構え住所の国を離れ、他国に於いて悪事仕出かし候はヾ、住居の国、悪事仕出かし候国とも二カ国を書き加え御構い場所書付相渡し候事」となっている。

 しかもこれらの追放刑には、別に付加刑として、闕所(けっしょ)というすべての財産を没収されることになる。

 追放刑には、これら以外に、日本橋より五里四方、即ち「江戸十里四方追放」、江戸五街道のそれぞれの大木戸より内側の「江戸払い」、在方は居村、江戸町人は居町払いの「所払い」となり、程度の差はあるが、財産の没収と云う付加刑がつく。

 また、自由刑という、本人の自由を奪う刑罰がある。今でいう懲役刑に当たるものである。但し、現在と違って、刑務所と云うのはなかった。したがって、自宅で、それぞれの御裁きに従うことになる。ちなみに牢屋と云うのは、最終御裁きがあるまで留め置かれるところのことで、御裁きが終わればそれぞれの処置に従うことになる。

 然らば、よく映画などに出てくる牢名主とはいかなるものかと云うと、牢内の雑役の取り仕切りや秩序の維持を命じられた囚人のことで、この場合は牢内に留め置かれることになり、作家岡本綺堂の「風俗江戸物語」によると、新規に入牢の際、身も震え上がるようなおどろおどろガ間敷き口上を云って聞かせることになっている。

 この自由刑には、門を閉じ窓を塞ぎ釘〆まではしなくてもよい「閉門」、門を立て夜中くぐりより目立たず様出入りすることができる「逼塞」、夜中目立たないよう出入りできる「遠慮」、以上は主に武士の場合であり、僧侶や、百姓・町人及び軽罪に対しては、他出仕らせずに、戸を建て寄り置く「押し込め」、更に、門戸を貫(ぬ)き(横棒)を以て釘〆の「戸〆」となる。

 そして、両手を揃えて瓢箪型の鉄の手錠を掛けて謹慎させるという「手(て)鎖(ぐさり)」である。期間は、二十日・三十日・五十日・百日とあり、五日毎に封印を改め、百日の場合は隔日改めであった。

 昔は、手鎖をかけたまま街を出歩いたなどと云われるが、小袖以外に着る物のない時代に、一体どのようにして出歩いていたのであろうか。

 更に、窃盗などの付加刑には「入墨」である。寛保五年(1745)まで行っていた耳鼻削ぎに代えて採用された刑罰で、「牢屋鋪に於いて腕廻し三分ずつ弐筋」と云うことで、物語に出てくる入墨者と云うことになる。

 そして、「敲き」である。「数五十たたき、重きは百敲き」となっている。この「敲き」について、作家佐藤雅美さんの「居眠り紋蔵」には、「人目にさらし、打ち役(鎰(いつ)役)が出牢証文と付け合わせ、小者四人が下帯一つの丸裸にし、筵の上にうつぶせに寝かし、両手両足を押さえつけ、箒と言われる青竹で叩く」と書かれている。主に、所払いや、江戸払いなどの軽罪に対して付加された御仕置である。

 現在、交通違反や、軽犯罪などの科せられる罰金刑と云うのがあるが、これに相当するものとして、「過料」と云うのがある。「過料三貫文・五貫文、重きは十貫文・二十貫文或いは金二十両又は三十両、身上に応じ、村高に応じ、定め日の内(三日)納め申すべき事。尤も、至って軽きもの過料差し出し難きは手鎖」とかなり曖昧である。

 これで終わりかと云えばそうはいかない。江戸時代、領主や代官から様々な御触れ書と云うのが出されていたが、これに違背した場合も「役儀取り上げ」と云うことで、務めていた村役などのお役御免を言い渡される。(10.12.10仏法僧)