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297.公事御仕置き6

 近年、「振り込め詐欺」と云う詐欺行為が横行しているらしいが、江戸時代にも、「巧み事、騙(かた)り事、重き強請(ねだ)り事致し候者御仕置の事」と云う条項がある。

 「巧み成る儀を申し掛け、度々金子等かたり取り候者、金高雑物の多少によらず 獄門」とかなり厳しい。このほか、役職詐称など八項目があるが、何れも死罪ないしは獄門で、今時の、「振り込め詐欺」などは、まぎれもなく、獄門に相違ない。

 ところで、今日、われわれの日常生活の中で、様々な度量衡を用いて生活しているが、その意義と云うものを余り強く意識されていない。この度量衡とは、さまざまな量に対してそれを測る「もの」あるいは「単位」のことを総称するときに用いられるもので、現在は、平成四年に制定された「計量法」に基づき、国際単位系(SI)の採用により、国際的に計量基準を統一することとなっている。

 江戸時代、日本全土が、将軍からそれぞれの封土(ほうど)として、各領主に分け与えられていたことはよく知られたことである。その封土は、先祖からの、徳川家に対する功績に応じて賜った物であるが、其の量を米の出来高である石と云う単位によって表示されていたこともよく知られたところである。

 この石高を測る基準である枡や計りは、江戸惣名主と云われる、徳川家累代の家臣の樽屋藤右衛門によって取り仕切られていたのである。

 したがって、枡目は徳川幕府運営の根幹であり、第六十八条には、「似せ秤、似せ枡、似せ朱墨拵え候者御仕置の事」と云うのがある。「似せ秤拵え候者、 引き回しの上獄門」と極めて厳しい。以下同様に、「似せ枡」「似せ朱墨」も同様となっている。

 この朱墨とは、書面に押す印鑑の朱肉であり、江戸時代の将軍が、花押の代わりに朱印を押して発行したものが御朱印状といわれ、絶対的な公的文書であった。したがって、朱印は、一般には使うことができず、大名などの自領の神社などへの領地安堵には、黒印状が使われていた。したがって、「似せ朱墨」も厳しく取りしまわれていたのだろう。

 序ながら、「似せ金銀」拵えも天下の大罪、「引き回しの上、磔」である。しかし、銭貨については一部の大名にも作らせており、これが経済の混乱を引き起こしている(別掲「銭金の話」参照)。

 江戸時代、人々が大変悩まされたことに火災がある。特に江戸に於いては、ときどき大火に襲われ、一般市民の住宅以外に、武家屋敷は勿論、将軍の居城江戸城までも何度となく襲われている。

 主なものでも、明暦三年(1657)別名振袖火事とも云われる明暦大火、この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられている。

 外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが三万から十万人と記録されている。

 更に、明和九年(1772)二月の明和大火、出火元は目黒の大円寺、放火犯は武州熊谷の無宿真秀という坊主で、大円寺から出火した炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋と江戸城下の武家屋敷を悉く焼き尽くし、更に神田、千住方面まで燃え広がった。その後も三日間にわたり燃え続けて、日本橋地区の江戸時代の代表的な商住地をことごとく焼きつくした。

 そして、文化三年(1806)の文化大火、芝車町(現港区高輪)かの材木座あたりから出火した火は瞬く間に広がり、薩摩藩邸や、芝増上寺の五重塔などを焼き尽くし、再び、京橋、日本橋のほとんどを焼失した。

 幕府も度重なる災難で懲りたのであろう。第七十条に、「火附け御仕置の事」に、「火を附け候者 火罪」と厳罪なっていて、この「火罪」と云うのは、火炙りである。

 そして、「火付け召捕り、または訴人に出候者、御褒美人数の多少によらず 銀三十枚」となっていて、銀一枚とは四十三匁、江戸時代初期の一両であり、幕府も防火に必死であったのだろう。

 更に、第六十条に「出火についての咎めの事」と云う条項がある。これには、「平日出火」の場合と、「御成り日」の場合があり、「御成り日朝より御帰り迄の間、並びに小菅、御殿、御成り、御帰りの日、並びに御逗留中、小間十軒以上焼失、且つ三町より以上焼失の節」となっていて、火元、火元の地主、火元の家主、火元の月行事取締、火元の組頭が、押し込めや手鎖の御仕置を受けている。その結果、江戸の町は、銭湯が大変に人気があったが、御成り日には、銭湯も休みにしていたのである。

 そして、第七十一条が、「人殺し並びに疵付け等御仕置の事」で、総数五十項目に及び、その第一項に「主殺し二日晒し一日引き回し、鋸挽きの上磔」とこれ以上ない最も重い御仕置である。

 江戸時代は封建制度と云われているが、この封建制度とは、厳密には皇帝・天子・王などが、直属の公領以外の土地を諸侯などに分け与え領有させることであるが、江戸時代では、将軍が大名や家臣に封土を分け諸侯を建てることである。

 したがって、領主に対しては絶対的に服従するという考えが基本にあり、その結果、「公事御定書」も、封建制の上に成り立っていて、「主人に手追わせ候者、晒しの上磔」と、傷を負わせただけでも、磔と云う厳刑である。
以下、地主や主人の親類、親、及びその舅(しゅうと)伯父伯母兄姉、はたまた弟妹甥姪、師匠に至るまで、いわゆる尊属殺人は悉く磔、または獄門と厳しい。

 また、最近の時代劇などで、犯罪者の事を「下手人」と云っているが、「下手人」とは、「人を殺し候者、下手人」と云うことで、御仕置の内容の事であった。通常は、小伝馬町の牢で執行された御仕置である。

 人を死に至らしめた場合、渡船で沈んで溺れ死んだ場合や、荷車を引きかけて死なせた場合でも死罪、または遠島と厳しい。

 江戸時代、武士が町行く人を刀の試し切りをする「辻斬り」と云うのがあったが、「辻斬り致し候者、 引き回しの上死罪」と云うことで、「主殺し」の類より、かなり軽い処分となっている。(10.11仏法僧)