サイバー老人ホーム

296.公事御仕置き5

 次が、「密通御仕置の事」であるが、これは、別掲「不義密通」で述べているので省略する。

 江戸時代、殺人などを除いて、絶対的な性悪説を取るものは少ない。「隠れ売女」も、「養娘遊女奉公」でも、情状酌量をしているものがおおく、また、実際に起きた場合で、内済と称し、岡っ引きや、同心の仲立ちで被害者・加害者との示談で解決するものが多く、ここに、本来無給の岡っ引き等の稼ぎのネタがあったのである。

 この事が、その後も売春等が公然と行われた原因であったのではなかろうか。ただ、在方においては、「五人組御仕置帳」に、「全て遊女野郎の類一切当村に置くべからず、一夜の宿をも致す間敷事」と厳しく禁じられている。なお、野郎とは陰間(男色)の事である。

 そして、第五十五条に、「三笠付け博打、取り除け無尽御仕置の事」となり、旧来の判例に基づいた刑事法令となる。

まず、「三笠付け」とは、宝永(1704〜1711)の頃から江戸を中心に行われた冠付けの一つで、俳諧の選者が冠の五文字を三題出し、それぞれに後の七・五を付けさせ、三句一組みにして高点を競うもので、もともとは俳諧の楽しみの一つだったのだろう。後に博打化され、一度の賞金が二両にもなったということで禁止になった。

 「三笠付け点者、金元並びに宿、 遠島」とかなり厳しい。この三笠付が、どのようにやっていたのか分からないが、その他、「句拾い」「致し候者」「宿」など、関係者を含めて、「家財取り上げ非人手下」や「過料」などといずれも厳しい。

 江戸時代、「富くじ」と云う、今でいう宝くじが神社を主体に行われたが、「三笠付け」は禁止せれても「富くじ」が認められたのは、公儀の許可を得た寺社が勧進元のためということで認められたということで、何れにせよ、手前勝手なお手盛り行政となろう。ついでながら、「富くじ」も明治になり刑法の規定により一律禁止となった。

 ただ、江戸時代、博打は厳しく取り締まられ、時代劇の芝居や、映画の題材に用いられている。当時、娯楽の少なかった時代で、町方。在方に限らず、暇を持て余した遊び人が一獲千金を夢見て博打に夢中になったのだろう。

 「御定書」の中にも、「武士屋敷にて召使博打うち候者、 遠島」と云う項目がある。武家屋敷と云えば、豪壮な建物と、折り目正しい家臣と、物静かなお女中方の住む所と想像するが、武家屋敷には、足軽長屋や、江戸後期には、武家の財政困窮から長屋を建てて市民にも貸し与えていていた。

 一方、市中を監視する町方同心などにとっては、武家屋敷は治外法権であり、その間隙をぬって足軽長屋に住む三一(さんぴん)侍(若党と云われる臨時の雇い人)、六尺、中間などの下僕が博打に打ち興じていたのだろう。

 在方でも博打は多く行われたのであろう。「五人組御仕置帳」に、「博奕・惣て賭けの諸勝負、或いは百姓講と名付け、商いに事よせ、博奕に似たる儀何にても仕りべからず、若し違背の輩之有りか、又は右の寮(宿)致す者あらば早速訴えべく事」とそれを裏付けている。

 いつの時代でも、働かなくて、金を儲けるということに血道をあげている輩はいるもので、近頃の、競馬・競輪・パチンコとその道は絶えないものである。

 次に、第五十六条は、「盗人御仕置の事」で、いよいよ捕り方たちのお出ましとなる。その冒頭に、「都(すべ)て盗物の品は、盗まれ候者へ相返し申すべく候。金子遣り捨て候はヾ、損失させべくは勿論、盗物取り戻し候とも、差別なく左の通り御仕置申し付く事」、即ち、盗品はすべて持ち主に返し、現金等は取り戻せなくとも、差別なく次の御仕置を申し付けよと云うことである。

 以下、累々と三十一項目にわたって規定していて、その最たるものは、「人を殺し盗み致し候者」で、今風に云うなら殺人強盗と云うことで、当然「獄門」である。

 次が、「盗みに入り、刃物にて人を疵付け候者、  盗み物、持ち主取り返し候とも獄門」と、今風に強盗傷害の類は、何れも死罪で、中でも「追剥致し者」は獄門と厳しい。
 面白いのは、「手元にこれ有る品を風(ふう)と盗み候類」、すなわち出来心と云うことになるが、「金子十両以上は 死罪」と云うことで、うっかりもできないことになる。

 ただ、「軽き盗み致し候者」は、「敲き」と事になるが、この中には、「湯屋に参り衣類着替え候者」とか、「橋の欄干、または武士の屋敷の鉄物外し候者、 重敲き」など、当時の 世相を髣髴するものもある。それにしても、人通りもある橋の欄干や擬宝珠をどのようにして外したものやら。

 その他、今でいう故物買いとか、盗賊に宿を貸したものなども、同罪で、「紛失の物、町触れの節隠し置き候者、 家財取り上げ、江戸払い」と日本人の正直さはこうしたことから醸成されていったのだろうか。

 この反対に、「拾い物取り計らいの事」と云う条項がある。「拾い物の儀、訴え出候はヾ、三日晒し、若し主(ぬし)出候はヾ、金子は落とし主と拾い主へ半分宛取らせ申すべく候、反物の類に候はヾ、残らず落とし主へ相返し、拾い候者へは、落し候者より相応に礼仕らせ申すべく事」と、このあたりもいかにも日本人の良心を感じさせるところである。

 江戸時代、旅をする場合、「道中手形」を携帯するという事は、別掲「旅行けば〜」で述べた。その折、関所手形に、決まり文句として、「万一此の者途中にて相煩い病死など仕り候はヾ、其の所の御作法通り御取り置き下されべく候」と書かれているが、第五十九条に、「倒れ死に並びに捨て者、手負い、病人等これ有りを訴え出ず者御仕置の事」と規定している。

 そして、「倒れ死に、並びに捨て者等これ有りを押し隠し、訴え出ずに於いては、店借地借家家主  過料五貫文、五人組  過料三貫文、名主  過料五貫文」となっていて、いわゆる行き倒れや、病人等は介抱してやることが義務付けられていたのである。

 一方、「五人組御仕置帳」にも、往来の輩が、若し煩った場合の処置について詳細に記載されているのは、冒頭の別掲「古文書」に示した通りである。

 私の子供の頃でも、ときどき物貰いと云う人が訪ねてきたが、家々では、嫌がりもぜず米や銭を恵んで与えていた。これ等も、昔の風習だったのだろう。(10.25仏法僧)