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294.公事御仕置き3

 江戸時代、関所破りは、天下の重罪だった。第二十一条に、「関所山越え候者並びに案内の者其の所に於いて磔、但し、男に誘引され、しのび通り候女は奴(しもべ)」となっている。

 この「奴(しもべ)」とは、女性特有の罪で、「望の者これ有り候はヾ遣わす。但し、望み候者これ無き内は、牢内に差し置く」と、今風に云うならなんとも人権無視も甚だしい御裁きである。

 ところが、前述の芥川賞作家田辺聖子さんの、「姥ざかり花の旅笠」によると、関所のあるところには必ず「女人みち」という抜け道があり、寺詣りなど多くの女人はこの道を通っていたと云うのである。

 江戸幕府は、建前では厳格な御法度を敷いていたが、現実にはこのような曖昧な方法を取っていたようである。「姥ざかり」の原典となった「東路日記」の筆者小田宅子(いえこ)刀自一行は、伊勢、善光寺、日光、江戸を廻ると云う、考えられないような大旅行をしているが、信州に入って最初の関所福島の関所では、取り締まりのうるさくない飯田藩預かりの一之瀬関所を通って善光寺に向かっている。

 幕末、水戸藩に尊王攘夷を主張する一部の藩士と武士階級以外の階層や水戸藩領以外も加わって天狗党を結成し、京都を目指し進軍する事件があった(天狗党の乱)。この時、天狗党は混乱を避けるために、敢えて一之瀬関所を通過したが、その後幕府は飯田藩にその責任を問い、家老を自栽させている。

 ところが、幕府は天狗党を追討するために軍勢をそろえて江戸から追ってきたが、一定の距離を置きながらいつになっても追い付こうとはせず、中山道和田峠では諏訪高島藩はこれを迎撃し、多数の死傷者を出した。飯田藩は高々一万五千石の小藩であり、天狗党の精鋭に対し勝ち目はなかったはずである。

 ところで、江戸時代、土地(領地)は、幕府の最高位者将軍から、各大名並びに旗本が個別的に賜っていたが、寛文四年四代将軍家綱の時代から、「領地朱印状」と目録が一斉に交付されるようになり、以後これが制度化し、将軍が変わるたびに一斉交付されるようになった。

 したがって、それに従う百姓はそれらの大名、旗本、はたまた将軍から直に借り受けていることになる。

 例外を除いて、田畑を勝手に売り払ってはいけない。そのことを規定したものが、「田畑永代売買並びに隠し地致し候者の事」という条項がある。

 この、「永代売買」とは、売りっぱなし、買いっぱなし、と云うことである。「永代売買渡し候当人、過料、加判名主役儀取り上げ、証人叱り、同売りもの永代買い候もの田畑取り上げ」となっている。なお、隠し地とは、村が支配者に差しだす、「村明細帳」に記載されていない田畑と云うことである。

 ただ、これでは困窮する百姓が当然出てくる。そこで、考えられたのが、質入れであった。この質入れについては、「質地取り捌きの事」と云う二十項目にも及ぶ長大な条項があり、基本的には、「年季明け十ヵ年過ぎ候はヾ、質地流れ地。但し、流れ地文言これ無き証文は、十ヵ年の内訴訟候はヾ、済み方申し付くべし」となっている。

 即ち、質地は、期限十年を限度し、十年を過ぎると、質流れになるということであったが、期限内であれば、其の間は自ら耕作して良く、この結果、徐々に小作農が増えていったのだろう。

 「五人組御仕置帳」にも、「田畑山林抔(など)永代売買御停止候、若し質物に書入れ候は十カ年を限り質手形に名主・組頭加判仕つらせべく候」となっている。

 ところで、今でも商取引の場合、末締め、翌末払いなど云うのが一般的で、それも現金払いなどと云うのはむしろ例外で、大方は手形払いであり、中には台風手形(二百十日)とか、跳ね継ぎ手形払いなどと云うのは、私の現役頃の経験したところである。

 江戸時代には、馴染みの商店などでは、盆暮れ払いとか、晦日払いなどと云って、庶民は現在より多様な信用取引が行われていた。ただ、基本的には、「三十日限り済まし方申し付く事」であった。

 第三十三条に、「借金銀書き入れ取り捌きの事」と云う条項があり、これにはおよそ二十七種の信用取引がなされていたことになる。

 これらの中には、現在ではお目にかかれなくなった、祠堂金とか、官金、書き入れ金などがある。この中で、祠堂金については、別掲「凶作」に述べたとおり、特定の寺社に認めていた貸付金であり、別名「名目金」と云われていた。

 また、「官金」とは、盲人が高利で貸し付けた金の事である。
 室町時代、盲人の生活を守るために「当道座」と云うものを作り、これに加入していない者には、平家琵琶・筝・按摩・鍼などの諸芸を許さないようにした。

 その特権は徳川家康によっていっそう保護され、盲人は一切の税を免除されて一番下位の「座頭」には一定の階層の武士・農民・町民の慶弔で冥加金を得る権利が与えられた。
 これによって婚礼や葬式、出産や元服などの二十数種の行事で座頭配当の者と挨拶に出向けば家格に応じて百文から一両の冥加金をもらうことができたのである。

 この金を盲人の「座頭金」といい、他の債権よりも優先して保護されるので貸し倒れも滅多になかった。

 貸し倒れが滅多にないことから、この「座頭金」を行う人達には寺社や豪商が資金を提供しており、元手に困らなかったということである。先頃問題となった経済格差の元凶ともいえる「投資ファンド」の前身と云う事であろうか。

 当時、誰でもが、利子を取って金を貸すなどと云う事は出来なかった。それを裏付けるものとして、「偽証文の事」と云う条項があり、「金銀借用の証文露見に及び候ては、筋立て難く又は、支配頭、或いは顕(あらわ)れ候て申し訳相立ち難き者の名を偽文言の内へ書き入れ、金銀借り候者  死罪」、同様に、「右趣存じながら貸し候に於いては、貸し候者も同断(同様)」となっている。

 いささか、江戸風の文学的表現になっているが、身分を偽って、金銀を借りた場合、借主・貸主とも死罪と云う極刑を科している。

 然らば、この借金銀の利息はいかほどであったかと云うと、第三十五条に、「利息定法の事」という条項がある。是によると、
「家質諸借金一割半以上は、利息其の割半に置くべき事
一割 三十両 一分
一割五分 二十両 一分
二割 十五両 一分
三割 十両 一分」
となっていて、前出の、我が故郷の二十両の郷借金の利息一割五分を裏付けている。
 ただ、末尾の一分とは、江戸時代、金銭貸借の場合、利息のほかに、礼金・筆墨料を払っていたということで、礼金・筆墨料に相当するものであろうか。(別掲「凶作」参照)(10.09仏法僧)