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293.公事御仕置き2

 その第一条は、「目安裏書(判)きの事」である。この「目安裏判」とは、江戸幕府の訴訟手続のひとつで、訴状の裏面に担当奉行が加印する事によって、訴訟の受理を意味することを示した。これは、現在の民事・刑事訴訟法にかかわることで、事件が起きた場合、どこに訴え出ればよいかと云うことである。

 そして、その第一項は、「寺社並びに同門前、関八州の外、私領、関八州の内にても寺社領より御府内へ掛り候出入り月番寺社奉行裏判」となっている。

 即ち、関八州の内外及び私領(幡)、御府内(江戸市中)の寺社及びその門前町で発生した事件は、寺社奉行が訴訟の受理をし、相手方(被告)に対する出頭命令の文言が記されると云うことである。

 続いて、「江戸町中より、御府内へ掛り候出入り、月番町奉行所裏判」である。江戸の町には、南町奉行所と、北町奉行所があり、それぞれ一カ月交代で、審理に当たったと云う事は前にも述べたとおりである(別掲「御用だ!」参照)。

 それでは、我が故郷など関八州外の在方などはどうであったかと云うと、第三項に、「関八州、御料、私領、関八州の外御料より御府内へかかり候出入り、月番勘定奉行裏判」ということで、勘定奉行支配となる。

 但し、「右双方名主・家主・五人組立会済ませべく、不埒明らかに候はヾ、七日の内に双方罷り出候樣裏書き償い金銀遣わす事」となっている。したがって、七日の内に埒明けしなかった場合には、江戸の奉行所まで出向くと云うことになり、それまでの費用はすべて当事者(村・町)負担であり、よくよくの事がなければ内済に応じなければならなければない仕組みであった。

 更に、「一万石以上一領一家中、外障りこれ無き候はヾ、その領主にて吟味を遂げ仕置の儀相伺うべく」となっており、大小名の封地、即ち「私領」は、他の領地に影響しない限りは、その領主に於いて吟味してもよいと云うことである。この規定が根拠になって、「私領で起きたことは私領で」と云う原則ができている。

 そして、「山城、大和、近江、丹波」は京都町奉行、「和泉、河内、摂津、播磨」は大坂町奉行取り捌きとなっている。

 幕府には、これ以外に遠国奉行と云う役職がある。これは、幕府の重要直轄地に置かれた奉行の総称で、老中の支配下にある。

 「遠国奉行支配の御代官並びに私領百姓地頭へ懸かり候出入りは、其の所の奉行・御代官・地頭より断りこれ有り上にて取り上げ、断り無き内は百姓願いで候とも、取り上げ無きこと」となっている。

 江戸時代、直訴と云うのが行われ、この直訴とは、所定の手続きを経ず、君主や上役などに直接訴えることで、取り分け、将軍・領主に対する越訴)をさし、厳禁されていた。

 第三条に「地頭(領主)より断り之無き百姓の願いは地頭へ相願うべく旨申し渡し、取り上げ之無く済ますべく由、地頭より申し聞かせ候」となっていて、直訴をする場合は、決死の覚悟で臨んだのである。

 それでも実際には、江戸城御門近くではたびたび直訴がおこなわれていたようで、時代小説作家佐藤雅美さんの「居眠り紋蔵」によると、

 まず、「おねげえでごぜえます」と言いながら竹の棒に挟んだ訴状を狙いの大名に差出す。すると、供の者が二度付き飛ばし、三度目に受け取る。そして訴状のみ請け取り、竹の棒は付き返す。当人は腰縄を打ち、番所の者を呼んで引き渡す、と云う手順だったということである。ただ、番所に引き渡された訴人がその後、どうなったかはわからない。

 また、「箱訴の事」と云う条項がある。この「箱訴」とは、徳川吉宗が享保六年(1721)に設けた直訴の制度で、評定所の門前に目安箱を置き、これに入れられた訴状は将軍みずからが開いて見ると云うことである。

 ただ、これも、「度々箱訴致し、手(て)鎖(くさり)免れ候後、又候(またぞろ)入れ候はヾ、町在とも江戸払い」となる。

 ところで、奉行所の吟味はどこで行われたかと云うと、それぞれの奉行の私邸である奉行所で行われたのである。即ち、「公事吟味式日立会へ差し出し、即日済まず儀、その掛かり奉行宅にて日数を懸けず様に吟味を詰め、一座評議の上、裁許申すべく事」となっており、今時の裁判のように時間ばかり掛けることもなかったようだが、実際はかなり手間取ったものもあったようである。

 ただ、御奉行の家族は毎日人殺し等の囚人と顔を突き合わせていたのではたまらない。そこで、家族は、中屋敷、または下屋敷で生活していたことになる。

 一方で、「地頭強訴並びに取り鎮めの事」と云う条項がある。江戸時代、百姓等が徒党を組んで強訴する、すなわち騒動の事であるが、この場合、「頭取(首謀者)死罪、名主重き追放、組頭田畑取り上げの上所払い、惣百姓村高に応じて過料、右地頭非分これ有り候はヾ、その品に応じて一等も、二等も軽く伺うべく未進これ無きに於いては、其の咎に及ばず」となっている。なお、品とは程度とか内容等の意味である。

 即ち、騒動の場合、その首謀者は死罪となるが、同時に名主は追放、組頭は田畑取り上げ、その他の百姓は、生産高に応じて過料となるということである。

 ただし、騒動の場合、主として領主側の落ち度の多いことがあり、その場合は、罪は一等も二等も減じられるということである。したがって、領内で起こった騒動については、領主は一方ならぬ気を使っていたのである。

 この強訴については、十二項目もあり、幕府も藩主も騒動にならぬよう並々ならぬ気を使っていたことがうかがえる。

 続いて、「重き御役人知行出入りの事」と云うのがある。これは「御老中、所司代、大阪御城代、若年寄並びに御側衆、評定所一座の分、領地出入り訴え出候節、伺いに及ばず取り計り、裁許の趣相伺い申すべき事」と云うことで、これは厳しい。

 ここに列挙された、「重き御役人」とは、今でいう総理大臣から、閣僚、官房長官、事務次官クラスまで、予備調査などもないまま裁許することで天皇にお伺いを立てると云うようなものである。老中で失脚した者の中には、この規定により罷免されたものが多いのではなかろうか。

 次に、第十一条、「用悪水・新田・堤・川除け出入りの事」と云うのがある。江戸時代、水出入り(騒動)は、百姓はもとより、領主にとっても死活問題であり、いったん発生すれば大騒動に及んだ。したがって、「御定書」の十一番目に、「諸国村々用水悪水並びに新田・新堤あるいは川除け等他領に掛けあい候出入り訴え出候時は、御代官、私領は地頭家来呼び出し、双方障りこれ無き様致し、熟談合済ませべく旨、申し聞き、取り上げ致すべく吟味の事」と念の入った規定となっている。

 水出入りについては、「五人組御仕置帳」にも、「用水懸け引き常々申し合い置き、諍論之無き樣指図請けべくの事。論抔(など)の場へ刀・脇差・鑓・長刀抔持出し荷檐(加担)者之有りは科本人より重かるべき事」と書かれていて、支配者・被支配者とも並々ならぬ意を用いていたのだろう。

 同様に、領地についても幕藩体制の根幹にかかわることで、以下、裁許に用うべく絵図・書面などについて規定し、この国がいかに書き物を重視し、いわば物件法の基本と云うことになる。(10.09仏法僧)