サイバー老人ホーム

292.公事御仕置き1

 昭和三十三年、東京の小松川女子高校の女生徒が何者かによって殺害されるという「小松川女子高校生殺人事件」が発生し、人々を恐怖に陥れた。

 当時、私が実社会に出て間もないころで、自分とそれほど年も離れていない、いたいけな少女が無残に殺されたことへの怒りと恐怖で、しばらくは、日本中がこの事件に持ちきりであった。

 それから五年後の、昭和三十八年には当時人気の芸能人トニー・谷さんの御子息が誘拐され、無残にも殺害されて発見されると云う事件があった。

 この二つの事件を境に、日本における殺人事件が凶悪化していったように記憶している。その根源には、日本人の意識の中に、女性や、子供など弱者を殺すとか、傷つける等はまともな人間がすることではないと云う意識があった。勿論、それまでもこの種の事件が皆無であったわけではなく、特に、大人の男女による色恋のもつれから、殺人に及んだなどと云うのがあり、これらの中にはその後芝居として話題をさらったものなどもあり、それだけ珍しくもあったのだろう。

 ただ、実際に生きた時代の子供や、少女の殺害事件と云うのは、吐き気を催すほどの嫌悪感があった。

 翻って、現在を見るに、犯罪の様相は一変し、その犯罪の陰に、一片の憐憫や、人間としての倫理観を微塵も感じられない犯罪が起きている。

 日本人には、死を忌み、死者に対する独特の思い入れがあり、それを端的に表現したのが、先ごろ米国アカデミー賞を受賞した映画「おくりびと」ではなかろうか。

 勿論、日本でも、かつては刀と云う凶器を振り回し、いとも簡単に人を殺し合った時代もあった。ただ、この時でさえも、欧米や、アジアの地域でのそれと違っていたと思っている。

 日本では、戦国時代と雖も、勧善懲悪の思想があり、ある意味では、勝者の身勝手な思い入れであったかもしれないが、いくら勝者がそう思っても、それに従う住民が、そう思わなければ歴史に留めることにはならない。

 それでは、日本人が持つ死生観はどこから来ているのかと云うと、その根源は、家族制度を核とする村社会にあったのではないかと思っている。

 江戸時代、町や村の治安は、名主や組頭と呼ばれる村役人(町役人)と、住民自らに課せられた「五人組」と云う最少行政組織の連帯責任で保たれてきたことは、前掲「御用だ!」で述べたとおりである。

 そして、それを具体的に示した規範は、今までにも何度か取り上げた「五人組御仕置書」だったのである。この「五人組御仕置帳」は、正確には「五人組御仕置帳前文」といい、本文である「前文」の後に、全ての村人が署名、捺印して「五人組御仕置帳」となる。
 記載項目は、村の特性によって多少異なるが、書かれている内容はほとんど同じであり、全条七十カ条を超えるようなものもある。

 越後頸城郡印内村(新潟県上越市)の「五人組御仕置帳」によると、その第一条に「前之掟、公儀度々出し候御法度書きの趣、弥(いよいよ)もって堅く相守り御制法の儀、相背かず樣に村中小百姓下々迄付けべき事」と書かれていて、幕府から直接お触れがあった事を示している。

 内容は、封建制度の根幹を支える年貢の取り扱いについて最も多くの条項を定め、その他宗門改め、衣服、婚礼、捨子など民事、刑事詳細を極めている。

 そして、末尾に「前書きの通り、御箇条逸(いち)々(いち)拝見奉り村中大小の百姓此の五人組に一人も除け候者御座無く候、御箇条印判庄屋方に写し置き申し候て、仰せ付けの通り読み聞かせ一カ条宛て合点致し、屹度相守り申すべく候」と書かれている。

 更に、「右の条々堅く相守るべく、此の旨違背の輩(やから)あらば曲事と為されべく、此の帳毎年正月、五月、九月、十一月一カ年に四度宛て村中大小百姓寄り合い、慥に読み聞かせ之有り候処の趣を以って合点罷り奉り候樣申し付くべき者也」となっている。即ち、毎年、節句などの寄り合いの都度、此の「五人組御仕置帳」を読み聞かせ、住民の道徳心を高めてきたのだろう。

 ただ、これは村人(町人)の自治によるもので、人殺しなどの重罪を除いて、原則的には加害者・被害者の内済(示談)で解決していたのだろう。ただ、在方であれば御役所といわれる陣屋、江戸府内であれば町奉行所に訴えて、その処置を委ねることになる。

 それでは、町奉行所や、陣屋ではこれをどのように扱っていたかと云うと、まず、基本的には、「公事方御定書」である。

 この「公事方御定書」とは、享保改革を推進した八代将軍吉宗のもとで作成され、享保二年(1742)に仮完成した上下二巻からなり、上巻は基本法令を、下巻は、旧来の判例に基づいた刑事法令を収録したものであるとされているが、上下の区別は特に見当たらない。

 その後、何度か改変されたが、基本は百カ条からなっており、「御定書百箇条」ともいわれ、評定所・町奉行・勘定奉行・寺社奉行・京都所司代・大坂城代のみが保管を許された幕府極秘の扱いを受けていた。

 この「公事方御定書」は、基本的には、三種類の写本があると云われ、極秘裏に諸藩でも写本が流布して自藩の法令制定の模範とされ日本国内統一法のようなものとなった。しかも驚いたことに、幕末、せいぜい五十軒足らずの我が故郷にも写本が残されている。(10.08仏法僧)