サイバー老人ホーム

327.押し入れ(1)

 押し入れと云うのは、日本家屋ならどこの家庭でもあるのではなかろうか。尤も、最近の住宅では、押し入れとは云わず、様々な呼称で呼ばれているだろうが、先ず、日本における生活様式から、押し入れが無い家庭は考えられない。その理由は、多少の例外があっても、根本的には日本の住宅の狭さと、日本人の習性に有るのではないかと思っている。

 最近は人口の減少から、かつての様な狭小な住宅は少なくなっただろうが、それにしても、自由な間取りで広々と、などとはとても考えられない。もう一つの、日本人の習性とは、今では世界中から注目されている日本人の「もったいない」という習性である。これは、かつて貧しかった頃からの習性で、今では世界中から注目されている日本人の美徳と聞いている。

 従って、多少、方式は変わっただろうが、日本の住宅から押し入れが無くなると云う事は考えられない。

 然らば、押し入れと云うのがいつ頃から始まったかというと、これが定説かどうか分からないが、押し入れの最も古い記録があるのは、寛永年間(1630年頃)の西本願寺書院のものであるらしい。その後、宝永年間(1700年代)になると、押し入れは多数書かれていると云うことである。

 凡そ、昔の住宅で最も設備が整っていたのは寺であったろうから、可なり正鵠を得たことではなかろうかと思っている。

 江戸中期に入ると、世の中も安定し、各地で大掛かりな建築工事が行われた。それに伴い、これ等の建築に関わる大勢の職人たちが、江戸・京・大阪などの中心的な大都市に集中し、多数の庶民住宅も出現した。ただ、始めの頃は、これ等庶民住宅の大方は長屋だった。

 当時の長屋は、「九尺二間」と云うのが相場で、この「九尺二間」と云うのは、今風で云うなら間口九尺(2.7メートル)、奥行き二間(3.6メートル)で、広さで云えば3坪で6畳と云うことになる。しかもこれには入ったところに土間と云うのがあり、これにお勝手がついて、煮炊きをして、来訪者の応接にも当った。

 従って、家族が寝泊まりするのは、奥の四畳半一間で、ここに、夫婦子供、時には親も含めて寝泊まりしていたことになる。その後、所帯道具も増え、必然的に押し入れが出現したのだろう。

 ただ、この事はさほど珍しいことではなく、私が社会に出た頃でも、4畳半一部屋に小さな流し台付きという貸間があった。私たち夫婦が結婚した当時(昭和40年)も、6畳一間(3坪)にトイレ・お勝手付きで家賃八千円という貸間だったのである。その後、当時としたら幸運にも公営住宅に入る事が出来たので、曲がりなりにも住宅事情は改善した。

 その後、子供が生まれ、勤めも変わり、それなりの住宅に移り住んだが、今、我が家に住むのは家内と二人だけになって、つらつら考えてみた。

 現在、5LDKで凡そ110平米と云う事だから、まずまず標準的な住宅であろうか。ただ、問題はその中身である。私たちが結婚した当時は、今と全く変わりがない質素と云うより、貧困そのものであった。

 婚約するにあたって、何がしかの結納金を払い、家内がそれを以って、和箪笥、洋箪笥をそれぞれひと棹、それに三面鏡と水屋という嫁入り道具を購入して、6畳一間の貸間に入ってきたのが始まりであった。

 その後、住いが移り、子供が生まれ、やがて成長するに従って、いくつかの家具が増えたり減ったりしたが、二棹の箪笥は我が家の動きの中で常に付いて回った。それほど貴重なものであったかと云えば全く違う。昭和三十年代の後半から、世の中様々なプラスチックの開花期で、毎月のように新しいプラスチックや、プラスチック製品が開発されて行った。

 この頃、デコラという化粧板が様々な家具や、建具に使われ出した。それまで家具と云うのは、桐箪笥などを代表する家具で、その桐材の良し悪しでランク付けされていて、おいそれと手の出る様なものでは無かった。その中に割って入ったのが、デコラ等を使った合板であり、これによって、私などの貧乏サラリーマンにも手に入る家具が出現したのである。

 尤も、こうした新建材の出現により、家具メーカーや、建築業では長年、安物家具などとの競争に悩まされたのかもしれない。その安物家具が、我が家には常に付きまとっていた事になる。

 買い替える意思がなかったかと言えば、そうでもない。時には、何かを買い足したりしたが、その中心とした二棹の箪笥は替る事がなく、やがてあちこちに傷も出来、しまいには引き出しの底が抜けそうになっても我が家にへばりついていた。

 それほど未練があったと事でもなく、基本的には動かす事が厄介で有り、夫婦二人ではどうにもならなかっただけである。もう一つは、箪笥の中に押し込められた「箪笥の肥し」をどこに動かしてよいやら見当もつかなかった事に有る。おまけに、ようやく暇も出来たと思った時、私の生活習慣病によって動かすこと等は思いもよらない事になってしまった。

 これと並行して、我が家の中が人の住むところから、物置に代わって行ったのである。その代表するものが、押し入れである。押し入れの主要収納物は当然布団である。この布団と云うのも始末の悪い物で、おいそれと、置き場を換えたり、捨てたりがしにくいものである。

 私の子供の頃でも、同じ布団に兄弟で包まって寝た等と云うのはごく当たり前であった。取り分け、戦時中には、綿と云うのが払底し、代わりに藁を詰め込んだ藁布団と云うのも使った記憶がある。

 従って、本能的に綿の入った布団や、綿入という衣類は「もったいない」の習性から、大事に使う習性が身についてしまった。それに、所帯を持ったら、来客の有った場合の布団を整えるのは、嫁の大切な務めであった。従って、何かあった場合、一族郎党が集まっても寝起きには困らないだけの寝具を準備していたのである。

 ところが我が家を訪れる寝泊まりする来客と云うのは、年二回だけ泊りに来る孫二人だけである。それも、家内と身を寄せ合っての雑魚寝で、とても取って置きの寝具を出してどうのこうのと云うことではない。従って、押し入れに押し込められた寝具は、殆ど移動する事もなく、閑居をむさぼっている。

 その結果は、大量の雑貨と云うより、がらくたが家の中のあらゆるところに押し込められ、積み上げられると云うことになり、肝心の住人たる家の主は片隅の方に押し込められることになった。(12.10.01仏法僧)