サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

53.幼馴染

 先日、田舎の中学時代の同級会があった。今年は私が幹事を引き受けて伊勢・志摩方面で行ったのである。ところが、驚いたことに先生を含めて連絡の取れる人,101人中なんと50人の出席者があったのである。

 私の田舎は信州であり、信州でも東信地区と呼ばれる東寄りの地域である。信州はどこも山の中、周りを見れば西を向いても東を向いても山ばかりである。小さい頃は太陽は東の山から上って西の山に沈むと疑うことなく信じていたのである。

 今は合併により一つの町になっているが、当時は二つの村境を千曲川が流れ、プールなどなかった時代であり、四季を通じ格好の遊び場でもあったのである。特に夏には流れの淀んだ場所は真っ黒に日焼けした痩せこけた河童たちにとってはかけがえのない水浴び場だったのである。このあたりには巨大な石がごろごろとしており、冷たい流れで冷え切った体を腹ばいに押し当ててしばしの温みを採り、再び流れに飛び込んでいったのである。

 当時は未だ水泳パンツなどという洒落たものはなく、小さな三角巾(猿股ならぬ猫又といったか?)で股間を覆っていたが、めだかのような小さなおチンチンで、しかも冷えてモンシロチョウの蛹(さなぎ)のように縮こまっていたから覆うほどのこともなく見え隠れしていたがそんなことはお構いなかったのである。そしてそんな姿で終戦の日を迎えたのである。

 この千曲川に沿って高原列車が走っていて当時はC56型機関車が文字通りあえぎながら走っていた。この汽車の汽笛は長く長く尾を引きながら山々にこだまして、遠く山の畑にいても聞こえ、畑仕事をしている人に時の経過を知らせていたのである。

 当時、私の村には二つの分校があり、小学校5年生からは本校に全て集結して授業を受けることになり、以後、同じ敷地内にある中学まで全ていっしょにすごした幼馴染である。この5年生のときから2年間受け持たれたのがヤマグチ先生で、私の学校生活の全てを濃縮したような2年間であったのである。当時は小学校にあがったときから名前を呼び合っており、姓を呼ぶのは学年でもごく限られて、どちらかといえば資産家の家の子弟に限られていたようなきがする。
 こうした家に対する一種の畏敬の念が子供心にもあったのかもしれない。その中で、セキネとはあらゆることに張り合ったがスポーツだけだ全く歯が立たなかったのである。あのセキネが何であんな底抜けの世話好きになったのだろう。それにしても座布団をもってすぐに踊りだすのは奇妙で面白い。
  踊りといえばあの生真面目なヤイッチャンが衣装まで持参で「箱根八里の半次郎」を踊ったのは大いに参ったのである。

 上の分校の生徒は一駅だけこの汽車に乗って通学していたが、当時は貨客混合列車といって、客車が1両に貨物車が数量つながった列車だったのである。しかも中には無蓋車といって屋根のないトロッコのような貨車があったのであるが、子供達は好んでこれに乗り込み、乗り込むと目隠しをした鬼ごっこに興ずるという天国のような通学だったのである。

 私の場合は汽車通学ではなかったので、同じく千曲川に沿って曲がりくねった県道を2キロあまりの下駄か藁草履を履いての徒歩通学だったのである。当時は勿論舗装などされておらず、雨が降るとぬかるみにはならなかったが、あちこちに水溜りだ出来た。
 夕立のあがった後で、道路に出来た水溜りの中に水生昆虫だと信じてアメンボが泳いでいるのを見つけて、驚異のまなざしで幾つかの小さなひとみが覗き込んでいたのである。

 冬のこの時期はあまり雪の多くない地域で、田んぼに水を入れて、もっぱらスケートに興じていたが、スケートといっても今のような靴スケートではなく、下駄に金具を取り付けた下駄スケート(下駄ゲロといった)だったのである。こんな中で、カトウ君とテルコちゃんの二人もの全日本トップクラスのスピードスケーターを同級生に持てたことは大いなる誇りであったのである。

 私達の学校(小学校と中学)は町の中心地からやや下流の町外れにあった。校門を出て千曲川の上流と下流に分かれる。私は上流に向かっての上りになるが、学校の門を出るとなだらかな下り坂になりやがて街中に入るのである。

 最初にあるのがタカトシ君ちの伯父さんがやっている小さな文房具屋があった。玩具などめったにお目にかかれない頃に小さな鉛で作ったジープが並べられていたのである。例によって腕白坊主たちの目にとまり、暫くそれを手にとって遊んだ後に店を出たのである。ところが翌日、学校に俺達がそれを盗ったのではないかと抗議を申し込んできたのである。
 これには腕白坊主達大いに怒ったのである。早速「絵文字入り」の抗議文を作り先生に突きつけたのである。その書き出しは「盗りもしないのに盗ったとは何事だ!」というものであった。あれはフミコ先生担任の3年生のときの出来事であった。

 そこから更に少し行ったところに新しく山口パン屋ができた。イースト菌の香ばしいにおいが通りまで満ちて、腹がぐうぐう鳴ったが、買うお小遣いなどあるわけがない。何時だったか、マサミ君が家からお米を持ってきて交換したことがあった。多少の後ろめたさはあったが、何もついていないコッペパンであったが奪い合うように食べた味は今でも忘れられない。

 村役場の少し手前にミチコちゃんちの山六商店があった。商店といても間口1間半に出店のように駄菓子が並んでいて、その中に籤付きのキャラメルがあった。一粒1円か2円だったと思うが、奇妙によく当たった。

 やがて隣村へ通ずる馬流橋への道と三つ角になっていて、当時の馬流橋は木造の吊り橋で、車一台がやっと通れるほどの橋であったが、橋を波打たせながらバスが通っていた。
 休み時間になるとすかさず砂場に飛び出して相撲を取った仲良しの下駄屋のコウチャンちの店はその手前にあった。コウチャンは今年も姿が見えない。

 そして角の右手の角がお菓子屋のアキチャンの店で、左手の角が角屋で怖い女の先輩がいた。この前を通るときだけは急ぎ足で通り過ぎたのである。

 この辺りが村での中心部で盆踊りもここで行われた。小さい頃は広大な広場のように考えていたが、今見ると大型車でもすれ違いが出来ないほどの狭さの中で木曽節が繰り返し踊られていた。あの祭りの音と光の中で、俺達は走り回り、買うわけでもないのに屋台を飽かずに眺めていたのである。

 もっとも当時は自動車などもめったに通るわけでもなく、エンジンの音でどこの所有の車か分かるほどであったのである。しかも今と違って性能が劣るから、通り過ぎるトラックをいっせいに追いかけて荷台にぶら下がり「只乗り」するのである。危ないと思うのであるが、次の坂道はどこということを知っており、そこにくるとスピードが必ず落ちるからわけなく降りられるのである。たまには運ちゃんに車をとめて怒られるのであるが、そのときは一目散にもと来た道を逃げ帰るのであった。

 私達の集落との境にアサジ君の家があった。家の石垣にスグリ(木の実)の木があり、未だ青い実をポケット一杯採って食べながら帰ったのである。決して美味しいといえるほどのものではないが、桑の実、イタドリ、山栗、食べられるものは何でも食べた。なぜか無性に腹がすいたのである。

 私達の集落の入り口に小さなトンネルがあり、ここまで来るとようやくもうすぐ帰り着くことになるが、行きつ戻りつして、まだまだ下校は簡単には終わらなかった。トンネルを出たところは千曲川の岸で切り立った崖になっていたのである。崖の端には鉄棒が一本お義理程度に立っていたが柵などない。この崖の端に行ってわざわざ逆立ちをして見せたのは、あれはキヨシ君だったのだろうか。

 信州の春は遅い。唐松が鮮緑の芽を吹く頃に梅も桜も桃も杏もいっせいに開花して、隣村出身の「いではく」さん作詞の「北国の春」にえがかれたとおりの春を迎える。それぞれの幼馴染の記憶素子の真髄に纏わりついた思い出が一気によみがえり留まるところを知らない一夜となったのである。(01.02仏法僧)