サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

123.おもろい話

 昨年5月に「鬱ネタ拒否宣言」をしてから1年になる。この間、できるだけ鬱ネタには目を向けないようにしていたが、最近また少し鬱ネタの穴に迷い込みそうである。

 それにしても最近、内も外も鬱ネタばかり、「まっことおもろい話」というものにトンとお目にかからない。そもそもこの「おもろい話」と言うものはどんなものかと考えてみた。あのビート・タケシさん曰く、お笑いと言うものは残酷であるらしい。確かにこれも一面あって、今のお笑いなども、本来は同情すべきところをこき下ろすところにシニカルな笑いがあるようである。

 昔から日本には川柳という、鬱ネタであっても巧みに風刺して「おもろい話」にもって行く、優れた文化がある。今でも、第一生命が毎年編纂している「サラリーマン川柳」などは思わずうなってしまう素晴らしい作品が多数寄せられるらしい。この技法が日本で寄席やお笑いという独特の文化を育んだのかもしれない。

 最近の吉本のお笑い番組など大阪のおばはんを盛んにこき下ろすネタが多いが、根底には大阪のおばはんのしたたかさをくすぐる内容になっていて、これが単なるこき下ろしでは如何に大阪のおばはんでも怒ってしまう。おばはんの方も心得たもので、これを免罪符にしたたかさの猛威をふるっているような気がする。

 ところで毎日が楽しいなどと言っているのは多分、何事に付け優越感をもっているからではないかと思うのである。劣等感があって、楽しいはずもなく「おもろい話」などあるはずがない。然らば、何事に付け優越感を持てば世の中は楽しくなることに気付き、今後は劣等感など考えないことにした。

 最近の世相を見るにつけ、いかにも腹の立つことばかりである。それというのもこの国をリードする立場の人間どものふがいなさであるが、保身と責任回避に明け暮れた世渡り上手で生き残った精鋭たちだけが頂点に集まった結果であり、この種の人間に初めから期待するほうが間違いだとようやく気付いたのである。

 世の不条理を嘆いて「死んでやる!」なんて馬鹿もいるが、私は決してそんな事はしない。これから先、国が破綻しようが、企業がつぶれようが、他人の力を利用することしか能のない「お前らより、絶対長生きしてやる!」と遅ればせながらいきまいているのである。尤も、生活力という点からみて、「ホームレスの人達には少し及ばないかな」という多少の懸念もないことはない。

 そうは言っても、右片麻痺の障害者が大きな口は叩けないが、何年か前の同級会でその中の一人、Hと何かの話の成り行きで「お前より絶対長生きして見せる!」と言い合ったことがあった。
 2年ぶりの参加で、奴には「負けたな」とちょっぴり忸怩たる思いがしていたのである。ところが会場について間もなく聞いた話では、今年の3月に急死したと言うのである。
 「まことに気の毒」と思う反面「勝った」という残酷な思いが頭を過ぎったことも事実で、何となく人の不幸を喜んだようで奇妙な戸惑いがあった。

 尤も、このとき「幼馴染」のセキネの野郎が「Hは亡くなるし、お前はヨイヨイになるし」と言いおったのである。脳卒中などの後遺障害者のことを「ヨイヨイ」というが、これ自体は当然差別用語ということらしい。
 しかし自分自身の意識の中には「ヨイヨイ」を容認しているのであるが、他人に言われると何となく腹も立つ。取り分け朝から浴びるように酒を飲んでヘロヘロしているセキネに「お前に言われたくはないわい!」と思うのであるが、どの程度「ヨイヨイ」なのか分からないので、家に帰って腰に鈴をつけて歩いてみた。

 すると、右左で「チリリン」「チロ」「チリリン」「チロ」と音色が違うのである。更に音色だけではなく、テンポも違い、何となくセキネの日本舞踊モドキと五分五分で、これが結構愛嬌がある。然らば腰にカウ・ベルでも結わえ付けていようかとも思うのであるが、昔の人は「ヨイヨイ」とはよくぞ言ったものと妙な感心をしたのである。

 ところで、最近、「元気を貰った」とか「勇気を貰った」などと聞くが、この言葉の背景には「あいつがあれだけやれるのに、俺は」と言う僻みとまでは行かないまでも自己反省で、劣等感を埋め合わせしているきらいがある。
 プール歩行で同じ障害の元気印のおばはんが「冗談じゃあない、人に差し上げる元気などあるわけがない!」といきまいていたが、できれば「障害者のくせに!」と怨嗟の眼差しで見られてみたいと思っている。

 「子供のくせに!」などとよく叱られたものであるが、この「くせに!」の中には「予想外の」と言う驚嘆の響きがある。ビート・タケシさんが「誰か障害者がドロボーでもしないかな」と言っている。
 障害者というのは同情すべき存在と考えられていること自体が差別であり、その障害者が悪い事をした場合に世間はどういう反応をするか見たいというのである。

 さすがにドロボーをしたいとは思わないが、最も身近な法律違反は、道路交通法になりそうである。最近は片手運転も凄みを増してきて、リハビリの一つとして右腕を窓にもたれ掛けて片手運転しているのだが、傍から見るとかなり与太った態度に見えるらしい。

 それかあらぬか先日もダンプに急接近されて追いまくられたが、降りていって、葵のご紋宜しく、やおら「四つ葉マーク」を掲げ「おい、タコッ、何所に目をつけてんのや。これが目にはいらんけ!」と一発かましてやろうかと思ったが、「チリリン」「チロ」を考えて止めることにした。

 「障害者のくせに!」と言えば、先日、同じ仲間何人かで久しぶりに会って一杯飲もうと言うことになった。ところが、その場所が阪急梅田の屋上ビアガーデンと言うことで、飲み放題、食べ放題と言うことである。結局、メンバーの一人が体調不良のため中止になったが、普段から足を取られているもの同士が食べ放題はさることながら、飲み放題で、どういうことになるかと興味津々だったが残念なことをした。 尤も、この程度で足を取られたら、同じML仲間で毎日清酒三合、ビール1本と言う剛の者(女性)から「男のくせに!」と一括されそうである。

 身体障害者というのは身体障害者福祉法と言う法律で障害者として認定されたからであるが、体に何の障害のない人など先ず考えられない。加えて、昨今の鬱ネタを考えると、世の中、いずれが「目くそ、鼻くそ」である。人間の価値は何ができるかではなく、何をしたかである。体の障害など、たかが障害であり、世の不公平を嘆き、哀れみを請うのではなく、「ワイが障害者や!」と大見得を切って生きてやろうと思うのであるが、張り切りすぎて「リハビリのし過ぎによる過労死」なんて新聞種にならぬようにほどほどにした方がよいかも知れない。

  尤も、こんな事を言っていたら、あの大滝修二さんに「詰まらん、お前の言うことは詰まらん」と、どやされそうである。(03.06仏法僧)
(差別を意識しないためにあえて差別用語を使用しています)