サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

66.置き忘れた夏

 五月晴れの春の名残りのある頃に入院し、鉛色の梅雨空が病室の窓の外を覆っていたと思うとまもなく夏空を思わせる日が続いた。そして甲子園の球児達の熱気が去ると共に今年の夏も終わろうとしている。

 今年もまた何時にも増して暑い夏の日が続いているようだが、私の夏は窓の外に過ぎ去っていく。夏は私が一番好きな季節である。暑いことはいくら暑くても気にならない。すべてが活動的なこの季節は最も生命の喜びを感じるときと思っていた。

 今年は梅雨に入ったら家内と北海道旅行をしようと話していたのである。舞鶴からフェリーに乗り3日目に小樽につき、車で北海道を周遊し、帰りは青森に出て南下しながら思い出の地を訪問しようと言うちょっとしたロマンチックな予定だったのである。北海道は私はほんのちょっぴり足を踏み入れたことがあったが、家内にとっては未知の土地である。それというのも結婚当時、北海道へ行きたいがお金がかかるからいつか行こうという因縁の土地であったのである。そのささやかな約束もまた実行不可能になったのである。

 それに今年もこの時期、南アルプスの仙丈ケ岳から昨年登った間ノ岳を経て農鳥岳から大門沢の大くだりを山梨県の奈良田に向けて歩いているはずであった。この仙丈ケ岳という山は南アルプスの中で3000メートル級の山で、雄大な山容をもつ山でありながら南アルプスの中では比較的登りやすい山かもしれない。それと言うのも海抜2000メートルの北沢峠までバスが入っていて以前は芦安の集落から1日がかりで峠までかかったのである。

 ここに登ったのも40数年前に、初めての冬山として正月の休みを利用して後輩のI籐君と登って以来である。登ったといっても完全に頂上まで登ったの記憶ははっきりしないが、山頂に円形の方向表示板があるのを確認して下山したので頂上だったと思っているのである。
 ただこの頃は山小屋も無人で、正月だったので当時でも山小屋はいっぱいで、われわれは2階にかろうじて位置を占めたのであるが、相棒のI籐君がお湯を沸かしていた携帯コンロをひっくり返し、下の階の登山者にこっぴどくしかられ、初めての冬山の高ぶった気持ちが一変にしぼんでしまったのである。

 当時は春山には何度か経験はあったが、冬山は初めての経験であり、回りはそうそうたるベテランばかりの中での失敗であり余計に落ち込んだのである。今回はその頃のほろ苦い思い出を辿って見たいと思っていたのである。
 尤も今回は頂上からは仙塩尾根という長い尾根路を昨年歩いた間ノ岳から塩見岳へのコースの途中にある三峰岳(みぶだけ)に出て、昨年のコースを間ノ岳まで逆に上り、間ノ岳から農鳥岳へのコースを行く予定だったのである。

 なぜ縦走というのにこだわるかといえば「雲表をかき分けて稜線を歩く」というわけでもないが、今まで歩いてきた延々と続く尾根道を振り返ったとき人間の2本の足で一歩一歩歩んできた時間の経過がたまらなく好きなのである。歩いてきたその道程には忘れられない物語があり詩情があるのである。

 仙塩尾根は仙丈ケ岳の中でももっとも長大な尾根である。ただこの尾根は南アルプス特有の濃い樹林帯の中を歩くので眺望は開けないのであるが、仙丈ケ岳への登りの混雑から急に人影は少なくなり、2日目の宿泊地は野呂川の源流にある右俣沢と左股沢の出会いにある両俣小屋では静かな夜を迎えられそうだと勝手に想像しているのである。

 南アルプスは混雑しているといっても北アルプスの比ではない。ここまで自力で到達しえた人たちとの出会いの安堵感がある。3日目は余裕を持っての農鳥岳手前の鞍部にある農鳥小屋と考えていたが、40年前には一気に大門沢を下ったような気がしていたが、もしかしたらこの小屋に泊まったのかもしれない。

 それというのも40年前は北岳では今は廃屋になった北岳の石室に泊まったのである。その場合翌日間ノ岳、農鳥岳を経て、大門沢を一気に下って1日で奈良田までは行けないのではないかと思うのである。この大門沢というのは今までに経験した中でもっとも急峻で長いくだりであったのである。何と言ったって標高差1700メートルを一気に下るのである。

 下っても下っても向こうの山の稜線が目の位置より高くならないのである。更に下ると谷川の音はするのであるがいつまでたっても川の流れが見えてこない。延々と6時間以上も下るとようやく野呂川が見えてくるが、私の登った頃は今の奈良田ダムが工事を始めたばかりで「発破の合図のサイレンがなったらここより先に進まないでください」という立て札があり、独りで恐る恐る通過したのである。

 今では途中に奈良田温泉というのがあるようだが、野呂川の出合いに出て更に2時間あまり下ったところが奈良田の集落であり、この中に西山温泉という一軒宿があったが、ここから狭い道路を民家の軒すれすれにバスが山梨県の鰍沢まで出ていたのである。

 この頃西山温泉の宿泊費はいくらだったか忘れたが、たぶん宿に聞いて疲労困憊していたのと、手持ちのお金で何とか間に合ったので泊まることにしたのである。宿は古びた建物で、周りの民家と差が無かったように思う。

 温泉といっても川の傾斜地に半分野天の木製で粗末な湯船があり、お義理にも立派とはいえなかったのである。更に湯船に入ると、底の方から湯花がどっと浮き上がってきてなんとも気色が悪いのである。
 その夜は何を食べたか、夜をどうすごしたかの記憶は無く、旅費の残り少なくなったことにおびえ、一つの行動をなしえた充足感などはみじんも無かったような気がするのである。

 今度はそのときの記憶を確かめるためにもう一度大門沢を下ってみたかったのである。今となってはまったく窓の外の夏の出来事になってしまった。間もなく秋を迎え、やがてこれからリハビリのために過ごす山陰の地には早い冬を迎えるだろう。
 その頃まで私のリハビリは続く。私の置き忘れた夏はいつかまた見つけ出すことが出来るのだろうか。 (01.08仏法僧)