サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

152.老 櫻

 桜の開花とは一つの木で五・六輪の花が開いた時期を指すらしい。これによるとわが街青葉台でも3月日25日が開花日と言うことになり、多分例年より少し早いのかもしれない。

 わが街青葉台には武庫川沿いの通りに沿って10本ばかりと、隣接する公園をあわせると結構な数になる。くわえて武庫川の砂州が格好な遊び場にもなり花見時にはかなりの行楽客が集まる。

 ただ、この桜、川沿いの護岸擁壁と舗装道路のきわめて狭い中に植えられており、何年か前の大水の後の護岸工事で建設車両に痛めつけられ、あちこちの枝が無残にへし折られ、おまけにガードレールに邪魔されて、へし曲げられ皮を削がれてなんとも惨めである。それでも毎年けなげに爛漫の花をつけて住民はもとより、訪れる人を喜ばしてきた。

 二十年前のここに越してきた当時は私もこの桜も最も華やかな頃だったのかもしれない。以来、我が家の愛犬「ペロ」との散歩道で、数え切れないほどこの木の下を歩いて、この桜も私の後半生を見つめてきたことになる。

 ここの桜はこの住宅地ができた昭和42年ごろには植えられたと思われるので、樹齢はかれこれ40年にもなるだろうか、かなりの巨木に成長しているが、最近はさすがに寄る年波で、衰えが目立ってきた。

 それが為か川向こうの土手に生えている若木より開花時期も少し遅いようである。桜には姥桜という言葉があるが、辞書によると「娘盛りの年頃を過ぎても、なお美しい器量を保っている女」と意味だそうで、いささか失礼な言い方かもしれないが、近頃は姥桜が多くなってきたような気がする。

 ところで、桜の花と言えばどちらかと言えば男のイメージが強いのではなかろうか。その理由は桜の咲き方によるのではないかと思っている。パッと咲いてパッと散るかつての日本男児の生き様を象徴しているような気がしていた。私の子供の頃、我が家に父が作った粗末な本箱が有り、その裏蓋に次のような句が墨書されていた。
「男の子なら いさぎよく散れ さくら花」
 この句が誰の作か知らないが、当時まだ戦時中のことであり、これが父の我々兄弟に対する思いだったのかもしれない。それから終戦を迎え、とりわけこの句のことを口にすることもなかったが、私の半生の中で少なからず何らかの影響があったような気がしている。

 しからばこのいさぎよさとは何かと考えてみると、昔ならさしづめ、敵陣に単騎切り込んで言って華々しく討ち死にするなんてことを想像するが、今時こんなことは流行らない。

 そうして見ると今の時勢にはあまり当てはまらないかと言えばそうでもなさそうである。少なくともこの逆を行く人は良く見かけるところである。「もうそろそろ散って頂いても」と思われる人がどこの社会にも必ずいるもので、とりわけ政治の世界には多いような気もする。

 尤も本人ははたの思惑とは関係なく、今でも十分に役に立っていると思っているのだから始末が悪い。自分の出処進退というものは自分ではなかなか決められないものかもしれない。私の現役当時も、中には藁人形を釘を打ち付けたいような人もいたが、とりわけ欲得がらみでしがみつくような輩は醜態であり、こうなると桜花の形容とは縁のない人ということになるのかもしれない。

 ところで、我々老人にとっての潮時と言うのはいつになることだろうかと考えてみた。自ら命を絶つなどということははた迷惑な話だけで桜花ということにはならない。いさぎよく散ると言うことは華々しいと言う前提がなければならないと思っている。

 この華々しさとは、華々しく生きると言うことではないかと思っている。こう言うと、また名誉職か何かの役職にしがみついているように思われるが、そうではなく、それぞれの立場で家庭を含めて社会に精一杯機能していると言うことで、生涯現役とはこのことではないかと思っている。

 近頃、現役を引退するやいなやさっさと自分の殻に閉じこもってしまう老人が多く見られ残念なことである。最近、BSテレビで小津安二郎監督の作品を良く見かけるが、僅か40年程前には老人がそれなりの役割を十分果たしていた。
 ところが今のテレビドラマではまったくと言ってもよく老人が描かれていない。それだけ描く老人がいなくなったのか、はたまた老人の役割がなくなったと言うことか、いずれにせよさびしい限りである。

 ところで、何年か前に顔見知りの老人がじっと立ち尽くして桜を眺めていたことがあった。それから何日かたってその老人の訃報が回覧板で回ってきたのである。多分、自分の余命を感じ、見納めと思って眺めていたのかもしれない。
 年々歳々四季は巡り、桜の時期を迎えるが、わが青葉台の桜も姥桜ならず、かなりの老桜になってきた。果たして後何年この桜を見ることができるだろうか、それとともに私自身が眺められるのも今までに見てきたよりも残りは少ない事は間違いない。

 桜には別に「徒桜(あだざくら)」という言葉もある。はかなく散ってしまう桜の花のことで、「明日ありと思う心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかわ」などと謡われているように、わが人生、あだ桜にならぬよう、せめて散り際はいさぎよく華やかに迎えられるように日々すごしたいと思うのである。(04.05仏法僧)