サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

72.ニワトリ

 入院中に親しい友人から永六輔さんの書いた「六輔の遠近メガネ」という本を贈ってもらった。あの永さんの語り口のように軽妙で、しゃれていて、歯切れがよく、まるで上等なデザートのような本である。食後の休憩時間に少しずつ気分転換に読んでいたのである。

 この中に先日亡くなった江戸屋猫八さんのことが書かれていた。猫八さんとは何時の頃か定かではないが、学校に来て公演してくれたのを見たのが最初の出会いである。ご存知物まねの草分け的存在で、主に動物の物まねを得意としてきた人である。この猫八さんが、最も得意とするニワトリの物まねをしても最近の子供たちは、さっぱり喜ばないというのである。

 何故かと言えば、最近は一般の家庭で、ニハトリを飼うことが無くなって、見る機会もなくなったというのである。確かに最近は田舎に行ってもニワトリの姿を見かけなくなった。その理由は勿論物価の優等生といわれる卵の値段が極めて安いことにある。最近の養鶏というのは農家の副業なんてものではなく、その規模といい、効率性といい、堂々とした産業である。

 規模が巨大になるからそこから発生する騒音や臭気が当然問題になり、人里はなれたところで行われるようになる。したがって最近の子供たちはニワトリというものをめったにお目にかかることもなくなったのである。

 私が子供の頃は、ニワトリの飼育は専ら子供の役目であった。何所の農家にも鶏小屋があって、昼間は一日中農家の庭先を歩き回っているニワトリの姿を見かけるのが農村の風物詩であったのである。
 そして夕方になると再び鶏小屋の追い込むのであるが、これがまたかなり大変な作業で、なかなか思惑通り言うことを聞いてくれないのである。「とう、とう、とう、と、と、とっ」と声をかけながら小さな手を広げて鶏小屋に追い込むのだが、肝心のところに来るとクルッと向きを変えるのである。取り分けオンドリは子供を馬鹿にして、ややもすると向かってくるのもいて、及び腰で追いまわしたものである。

 最近はニワトリの配合飼料などというものも栄養満点に工業生産されたもので、我々の子供の頃では人間が食べても可笑しく無いものになっている。昔はニワトリの餌は粗食の代名詞になっており、「我が家の食事はニワトリのように粗食で」なんていったものである。尤も、私の子供の頃はニワトリの餌といえば専らクレソンを刻んで、それに米糠をかき混ぜた程度のものであった。クレソンといえば西洋料理に出てくる奴で、どちらかといえばステーキの端に気取って添えてある高級野菜の部類に入るかもしれない。
 当時は「台湾芹」といって、ニワトリの餌以外には見向きもしなかったのである。何故かと言えば、水のきれいな近くの小川に行けば、一年中青々としていて、青物を好むニワトリの餌にはもってこいだったのである。

 尤も当時のニワトリには茶碗のかけらなども与え、これが卵の殻になるという大人の説明を真に受けていたが、これは間違いで、砂袋にはいって他の餌を消化するために食べるらしいが、ニワトリといえども茶碗のかけらが美味かったわけではないだろう。

 庭に放し飼いされたニワトリが、時々縁側に上がって糞をするのには閉口した。私の田舎は養蚕をしていたので、縁側から階段があり、時々ニワトリがこの階段を「コトッ」「コトッ」と昇ってゆくのである。そして昇りきったところから庭にバタバタと舞い降りるのである。舞い降りるといっても野鳥のように軽やかというわけには行かずかなり騒々しい降り方である。

 ニワトリが何故こう言う行動をしたのかよく分からないが、明日おも知れない命のはかなさに悲観して飛び降り自殺を図ったということではない。多分、狭い鶏小屋に押し込められながら、大空を自由に飛び交う小鳥達を見たとき、身の不幸をしみじみと感じ、いつかはああした鳥達と同じように大空を自由に飛び交いたいと考えたのではないかと思うと、ニワトリといえどもその志は崇高に見えてくるのである。

 それでもこの当時のニワトリはある程度の自由はあり、十分に高齢になるまで生き長らえることが出来たが、最近のニワトリは卵を産まなくなったら直ちにブロイラー行きである。人間に飼育されているといえどもあまりに冷酷な仕打ちであるのではないかと思うのである。先日テレビで肉牛飼育農家が、飼っていた牛を出荷する時、牛が涙を流すという話を聞いた。

 食物連鎖というのがあって、新しい生命を育むために生命が失われるのは神が創りたもうた摂理であるといわれる。ただこの場合も、異なった種の場合に限り許されることであり、同一の種の場合は、種の保護の立場から許されてはいないということである。簡単に言えば共食いは許されないということである。

 こうしてみると肉骨紛とやらは明らかに神の許された摂理に反することであり、美食と経済性という人間のエゴからしても許されることではない。その咎めが最近の狂牛病問題だと思っている。尤も、最近のテロだ、戦争だというのが共食いとどう違うのかはなはだ疑問ではある。

 全ての生物は、過去の遺伝子の運び屋に過ぎないそうである。最近の食生活は種の保存という究極の目的から逸脱し、人間のおごりによるものが主体となっているように思えてならない。
 食物連鎖とは言え、ニワトリが舞い降りる遺伝子は今も受け継がれているのであって、全ての生物の崇高な思いに心して食事というのはすべきではないかと思うのである。(02.01仏法僧)