サイバー老人ホーム

238.年季奉公

 近頃、女性のあらゆる分野への進出は目覚しい。進出と言うか、むしろこれが当然であって、これが男女共同参画社会というものだろうか。

 ところで、私が実社会に入った頃でも、女性の職場と言うのは可なり限られていた。女性の職場といえば紡績工場や、製糸工場であり、デパートの女店員などと言うのは、若い女性にとっては憧れの的であった。勿論、当時でも、女性事務員と言う仕事は有ったが、同じ事務員でも、男性の場合と事なり、私の入った会社でも「事務手伝い」と呼ばれていた。

 戦後でこの程度のものであるから、江戸時代の女性の仕事と言うのはどのようなものであったか調べてみた。

 女は嫁に行くのが宿命であり、つい最近まで、女性が結婚する事を「永久就職」などといわれていたが、然らば、嫁にいけなかった女性はどうなったかといえば、年季奉公と言うことに成る。農家の下女となって主婦の代わりになって年季奉公をする事に成る。

 この下女とは、農家に寄宿して、農作業や時により、家事手伝いをすると言うことである。
 凡そ、十歳ともなれば、奉公に出され、かの「おしん」の場合は、五歳で子守奉公に出されている。

 正徳三年(1713)、二年年季で女中奉公に出された女の手当てが、二分と三百文と言う記録が残っている。この頃、米の値段が白米一石が二両二分程度であり、二年間の給金が、米二升一合にも満たなかったと言うことである。ただ、「衣束(衣類)はお手前(雇い主)持ち」と言う事になっていたらしい。

 それから130年後の天保十四年(1843)、「年貢米永差詰り、母みつ申す女性、当卯十二月より、来辰十二月迄一ヵ年御奉公に相定め、給金三両二分木綿一反と相決め」という記録が残っている。

 ただ、この三両二分に木綿一反と言うのは可なり厚遇されたもので、年貢米永の差詰りにより、金主となった名主の配慮があったのではなかろうか。

 そもそも年季奉公の場合、給金は前借りで、本人には渡らず、家族に渡されるのである。従って、このような年季奉公ならまだ先に希望が残るが、更にひどくなると、幕府公認の遊郭への女郎奉公と言うことになる。

 ここまで来ると、身売りと言う人身売買であり、佐藤雅美さんによると、女郎奉公七〜八年で、二十両ぐらいが相場だったと言うことであるが、これはまさに地獄への入口である。

 ただ、遊女と言う事になれば、当然美貌が物を言い、今では余りお眼にもかかれなくなった醜女(しこめ)めであれば、遊女にもなれなかったと言う事に成る。

 今の時代のように、どこを向いても美人ばかりならいざ知らず、失礼ながら、当時の百姓女は、余り見目麗しき女は少なかったようである。すると、これらの醜女の皆さんはどこえ行ったかといえば、宿場女郎といわれる「飯盛り女」に売られていくと言うことになる。

 遊女と言うのは勿論売春婦と言うことに成るが、当時、売春は遊女の権利であったと言うことである。ところが、佐藤雅美さんによると、「飯盛り女」と言うのは、旅籠で二人まで認められていた売春婦ということで、男の身勝手ながらこの世界でも狭き門だったと言う事に成る。

 この飯盛り女の相場は、二百文から三百文と言われ、百文で、米が六〜七合買えた時代である。しかも、これらは、全て抱え主の収入となり、女性への配分はない。衣食のみは保障されているが、それも十分な稼ぎがある場合であって、長煩い(病気)になったり、容色が失われてきた場合は、お払い箱と成る。

 年季奉公と言うのは、決められた期間、決められた仕事に従事すると言うことであるが、運よく遊女として七〜八年勤めたあとの女性の体がどうであるかといえば大体想像も出来ると言うものである。

 然らば、権利も無く、見目麗しくもない女はどうしたかといえば、「隠れ売女」として、通称「よたか」などと呼ばれ、幕府公認の遊郭など以外の神社や、橋の下などで、身長(みなが)と言う筵を敷いて売春を行うのである。佐藤雅美さんによると、一回で二十四文であったそうである。

 当時、屋台で二八蕎麦などと言って売られる夜鳴き蕎麦が二十八文だったということで、ここまで身をやつした女性にとってはまさに地獄の淵であった。

 これらの、「隠れ売女」は、江戸幕府の刑法法典「御定書」によると、「隠れ売女いたし候もの、身上に応じ過料の上、百日手鎖にて所へ預け置き、隔日封印改め」とされている。しかし、実際には、この程度の事ではなくならなかったのだろう。

 元文五年(1740)には、隠れ売女は「三ヵ年の内新吉原町へ取らせ遣す」となっている。すなわち、幕府は隠れ売女狩りを行い、捕らえた売女を遊郭吉原に入札のより引き渡している。

 しかも、落ちた金を女に渡したのではなく、奉行所の費用に当てると言う鬼畜の所業を行っているのである。

 ただ、遊女として身売りした文書というのはお眼にかかれないが、嘉永六年(1853)に「飯盛り女」が欠け落ち(逃亡)し、逃げ込んだ先で、「抱え主非道の取り計らい致され、相嘆き御すがり申し上げ候に付き、お聞きただしこれ有り、当人行く末不憫に思し召され」、引取り人が引き取る事になったという、地獄に仏のような事もあった。

 また、女にしても、宿命として諦めるだけでなく、積極的に自分の人生を切り開こうと言う例もある。

 安政二年(1855)、「大坂日本橋出生みつ当十二歳、去る八ヵ年以前両親死失、親類とても之無く、入魂(じっこん)の方に世話になり候ところ、当春に至り悪だくみにより売女に売り渡しべく趣に付き、欠け落ちいたし善光寺へ心掛け(めざし)、子守奉公也とも致したく流浪」しているところを、北国街道坂木宿(信州)の主に引き取られたと言う記録が残っている。たった十二歳の少女が、どのように大阪から信州までたどり着いたのだろうか。

 ただ、芸事と言われる、琴三味線や、長唄端唄などの類は女性の領域であったのだろうが、これらのお師匠さんとはどのような人種であったのだろうか。江戸や御城下のような賑やかな町ならいざ知らず、食うか喰わずの百姓上がりの女が、出来る仕事ではない。

 その他、女髪結いと言うのが大繁盛したと言うことであるが、是なども、天保改革(1839−1843)では、奢侈として禁止されている。

 こうした江戸時代に比べ、職業選択の自由が広がり、世の女性どもは我が世の春を謳歌しているが、浮かれすぎて聊か罰当たりな所業も目に付く今日この頃である。(08.04仏法僧)