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266.年貢の納め時3

 我が村に残された安永九年(1780)の次のような「年貢皆済状」がある。
            「覚
   信州佐久郡鎰掛村

  一、米十六石九斗三升二合     本途
    代金十一両三分と永百七十三文九分    但し、金一両に付き一石四斗二升

  一、米四升一合       御伝馬宿入用
    代永二十八文九分   但し右同断

  一、米一斗三升五合     六尺給米
    代永九十五文一分    但し右同断

  一、永百六十八文九分    御蔵前入用

  一、永三百六十五文     小物成永

  一、米五斗八合       御口米
    代金壱分と永百五十一文三分  但し、金一両につき一石二斗六升五合九勺一才

  一、永十一文        御口永

    納合  金十二両三分
    永二百四十四文五分

      外

    金一分と永七十六文九分  去る亥(安永八年)仰せ出られ候御普請国役金
    永三分       包歩銀

   右は去る亥年御年貢其の外納め方書面の通り上納皆済仕り候ところ拠って件の通り

  安永九年三月
                   鎰掛村    名主・組頭・百姓代

  平賀御役所」

 これに対し、代官所は「表書きの金十三両一分と永八十九文五分、去る亥年御年貢其の外上納皆済のところ相違之無く候以上    代官印」となって漸く目出度し、目出度しとなる。

 ところが、ここまでに至る手順がとてつもなく複雑である。

 此の年の本途米十六石九斗三升二合は、冒頭の安永二年の「村明細帳」の村高六十七石五斗六升四合に対する年貢だろうから、二割五分、即ち「二つ五分」と言う事になる。

 「代金十一両三分と永百七十三文九分 但し、金一両に付き一石四斗二升」ということは、一分当り約三斗五升であり、この換算でゆくと十一両三分は四十七分、したがって十六石六斗八升五合で、残りは二斗四升七合となる。

 この二斗四升七合が永百七十三文九分に相当する事になり、一文当り一合四勺二となる。したがって、一両を仮想通貨永一貫文で計算していたという複雑さである。

 永を村人に賦課するに当たっては、実際には貨幣として存在しない厘毛まで出して賦課している。村人は、その値に、公表されている鐚銭(寛永通宝)の御定相場を乗じて年貢を納めていたのだろう。

 ちなみに、幕府は、元禄十三年(1700)に御定相場を改定し、金一両を鐚六貫文に改定しており、永一文は鐚六文で換算していたと思われる。

 次に、幕府直轄領に課せられた高掛三役がある。その一つが、五街道の整備や本宿、宿駅の維持経営費としての「御伝馬宿入用」であるが、村高六十七石五斗六升四合に対して、六毛(0.06%)である。

 これは、越前坂井郡の天領野中村の宝暦八年(1758)における「年貢皆済状」が残っていて、「御伝馬宿入用」は村高百石に対し、米六升と書かれていてこれを裏付けている。

 「御伝馬宿入用」米四升一合を、一合四勺二で割ると二十八文九分で右の皆済状と一致する。
以下、「六尺給米」は、大名や旗本等のお供に「中間」とか「六尺」と呼ばれる使用人が居たが、これらの使用人に対する給米を指し、高百石に対し二斗(0.2%)の割合で課された。

 また「御蔵前入用」は、浅草にあった幕府米蔵の諸経費に充てられ、高百石につき永二百五十文(2.5%)である。したがって、村高六十七石五斗六升四合に2.5パーセントを乗ずると永百六十八文九分となる。

 「御口米」は本途物成を本来米納すべき分に賦課されるもので、本来は年貢徴収に当たる代官所の経費に当てられていたが、享保十年(1725)以降は、天領代官諸費用が、幕府より給されたので、口米・口永とも幕府に直接納付される事になった。

 したがって、右の安永九年の場合は、代官所費用と云う事になり、米納分の三パーセントで、「御口米」五斗八合は、本途の3パーセントとなる。ただし、一両当りを一石二斗六升五合九勺一才にて換算している理由は残念ながら分からない。

 これに、雑税の小物成りに対して三パーセントの口永が加算され、以上を〆て「納合 金二十両三分  永二百四十五文」となり、永は二百五十文で金一分に換算されている。

 最後に、前年の御普請に対する国益金と、「包歩銀」とあるが、此の算出根拠は見当たらない。年貢と云うのは現在の租税と異なり、基本的には見返りはない。この「包歩銀」が、代官所に対する寸志の意味があったのであれば随分義理堅いことである。

 名主を始めてする村役は、取り入れ後の忙しい合間を縫ってこれだけの事を翌年の二月までに行い、代官所に収めるわけだが、これに対する名主・組頭の報酬は籾九石であり、米に換算して四両二分と言う事になる。

 この当時の我が故郷は、戸数は高々五十軒たらず人口二百二・三十人の村の総ての自治を統治していた事になる。先人達の偉さをつくづく感じるのである。(09.07仏法僧)


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