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265.年貢の納め時2

 村役人は、検見または定免により「年貢割付状」を作成し、代官所に提出する。この「年貢割付状」は可なり長尺の文書で、我が故郷には天明六年の「年貢割付状」が残っている。

 これによると、「酉(安永六年)より午(天明六年)迄十ヵ年定免の内当午(天明六年)破免」と書かれている。この破免とは、凶作の場合の特例として、定免によらず検見)法によって年貢を徴収することである。

 天明六年というのは、二年前の天明四年には浅間山が大爆発を起こし、周辺はもとより、遠く江戸までも火山灰を降らせ、未曾有の大災害を起こした年である。その後、全国的な大凶作が続き、各地に騒動が起こっている。

 その凶作のさなかの「年貢割付帳」である。次のような「年貢割付状」を作成し、代官所の承認(裏書)を得ている。

 この「年貢割付状」には、「御年貢可納割付の事」の書き出しで、村高と惣反別の次に、まず田の高・反別が示され、上・中・下・下下田の順に、高・反別と、次に川欠け(水害)、山崩れなどその年の年貢賦課の対象から除かれるものが差し引かれ、取米高(年貢納米高)が示される。

 ちなみに、天明六年には、「検見減」のほか、「石砂入り引(水害)」「当午皆無」などの記載があり、「取米合五石六斗三合  納合米五石二斗八升三合  永四百二十六文二分」となっている。

 この中で、「納合」とは、納めるべき年貢の総計で、「永」は、中世に通用していた永楽銭の事だが、江戸時代では通用が禁じられていた。しかし、年貢の場合、金と銭との交換比率を示すために名目的に「永」の呼称が使用されていたのである。

 この時、我が故郷の田圃は、総数四町余りであり、総じて下田であったろうと思われる。したがって、平年作であれば、反収一石一斗として四十四石余りであるが、これがわずか五石六斗であったと言う事になる。

 そして、「右は当年御取箇(年貢)書面の通り候条、村中大小百姓入り作の者まで残らず立会い、高下無くこの割合にて、来る極め月十日限り急度皆済せしむ者也  代官」となり、形の上では代官から示された形をとっている。また、極め月とは翌年二月である。

 村役は、これにより「検地帳」を基に、各百姓毎に年貢の割付をするわけだが、検見の際、その年の天候異変や、作柄の変化は予めはっきりさせているが、それでも、最終的な割付にあたっては、個々の作柄については可なりもめたことであろう。

 斯くして、漸く個々の百姓ごとの年貢が決まり、通常、名主宅に設けられた郷蔵に収めて目出度し、目出度しとなるが、そうは簡単に行かない。

 米納は米を俵につめて送るのであるが、俵の容量は一定ではない。しかし、員数の確認は一俵、二俵と俵で数える。

 私などもつい最近まで、一俵は四斗入りと思っていた。ところが、正確には、一俵は三斗五升であり、延米二升を加えて三斗七升としたと言うのである。この延米とは、年貢米を俵に詰める時に目減りを考えて付加されたものである。

 元和二年(1616)、枡に山盛りにすることはせずに、斗掻き(とかき)棒でかきならして、そのかわりに別に延米二升を加えて三斗七升俵として納めたということである。したがって、百姓は、三斗五升の年貢に対し、三斗七升の米を出荷していた事になる。

 しかも、天領や多くの藩では枡座(江戸惣名主樽屋籐右衛門)から購入する京枡を使用していたが、年貢米を納めるにはこの桝を用いないで、京桝の一斗より少し大きく、一斗七合の大きさの桝を使っていて、これを収納桝とか納め桝などといっていたと言う事だが、その結果が、一俵は四斗入りが定例化したのかもしれない。

 なお、「延米」という名称は私領(藩)におけるもので、幕領においては「出目米」(でめまい)と称したようであるが、その区別は必ずしも明確ではないということである。

 更に、年貢には、本途以外に薪取場や、秣場(まぐさば)の入会料としての小物成、高掛三役といわれる村の惣収量によって負担する「伝馬宿入用」、江戸城台所人夫費として「六尺給米」、浅草米蔵人夫賃としての「蔵前入用」が賦課されてその年の年貢となるという複雑さである。

 この「高掛三役」は、我が故郷のような幕府直轄領に課せられる年貢であって、通常、田については米で納める米納、畑・屋敷・小物成・高掛三役は貨幣で収める永納が普通である。ただ、江戸後期には、本途でも永納するのが多くなり、金納の本租に課せられる付加税として「口永」が課せられ、代官所の経費に当てられていたのである。

 更に、年貢を永で納める場合、一石当りの換算比率が一般に流通している通貨(寛永通宝)の換算ではなかったのである。

 そもそも、江戸幕府が開設された慶長末期、幕藩体制が敷かれたが、各藩の知行地の収量で示された。そのときの出来高は、太閤検地を基に、石高で示され、一石は一両、一両は永一貫文(千文)と定められた。これを御定相場といったのである。

 この値は、多少の出入りはあったとしても、基本的にはその後も変わりはない。したがって、「年貢割付状」の年貢を永納する場合、この換算額で表示する事になる。ただ、村人には、当然、その当時の鐚銭の相場でもって割り付ける。

 そして漸くその年の年貢が納付されて、「年貢皆済目録」を村方より代官所に差し出し、係り役人に皆済の旨を裏書されて証印を頂きめでたく完了と成る。(09.06仏法僧)