サイバー老人ホーム

264.年貢の納め時

 私の場合、他の人より一足早く「後期高齢者」に祀り上げられた。それと言うのも、かつての悪しき生活習慣の因果により、何年か前に身体障害者になったことによる。と言うことは、そろそろ「年貢の納め時」が近づいたと言うことか・・・。

 ところで、この「年貢の納め時」とはいかなる言葉かと早速Googl辞書を引いてみると、「(年貢)滞納を清算する時の意から、過去の悪事の償いをしなくてはならない時期」と言うことである。

 私にとって、手が後ろに回るような悪事を働いた覚えもないが、若かりし頃繰り返した不埒な生活習慣は万死に値するものであったのかもしれない。

 もっとも、そのために手足をもがれるも同然のお裁きを頂き、聊か泥縄の感は免れないが、日夜これ謹慎して精進に勤めている次第である。

 「年貢」と言うのは、江戸時代までに我が祖先の百姓たちが、毎年頭を悩ませてきたものだと言う事は承知しているが、その実態は余り良く分かっていない。

 年貢の起源をさかのぼると、今から凡そ千四百年前の、大化の改新までさかのぼると言うから、我が祖先と言えども影も形もない頃と言うことに成る。

 七世紀から八世紀初頭に始まった律令制における租税は、租庸調制と呼ばれ、人民一人ひとりを対象に課税・徴税するようになってからと言うことで、大化の改新により、中央集権的律令国家が成立してから言う事である。

 此の頃は産物や役務で中央政府に貢物として納められていたが、その後律令制がゆるみ、武士の台頭、経済の隆盛により、土地の重層支配から守護・地頭支配に統一され、一つの土地の耕作者がその土地の唯一の権利者となり、土地の生産力は米の見込生産量、即ち石高が決められた(太閤検地)。

 この石高を村落全体で集計した村高に応じて村の年貢量とされ、年貢納入は村落が一括納入の義務を負う村請の形態が採用されたという若かりし頃のおぼろげの記憶である。

 然らば、我が祖先が出現した江戸時代の年貢と言うのはいかなるものであったかと言うと、驚くほど複雑な次のような手順で行われ、此の年貢に関する文書は各地に数多く残っている。ただ、我が故郷は、幕府直轄領であり、大名所領とはその内容も、収受の方法も異なる。

 まず最初に、年貢賦課を決定するための作業である。年貢決定方法には実際に田畑を調べ収量を定める検見取りと、過去何年間の平均的収量より定める定免取りと言うのがあると言う事もよく聞く話である。

 ただ、江戸後期になると、検見取りによる手数と、調査担当者の不正防止などから、定免取りが主流になっていたと言う事である。ところが、此の何れの方法であっても、村方の帳簿なるものが尋常ではない。

 まず、村ごとに「村明細帳」と言うものが作られていた。これが、村の状況を知るための最も基本となる書類である。

 この「村明細帳」とは、村鑑明細帳とか、村差出明細帳など様々な呼び名で呼ばれていたが、その名が示すように村の状態を示す村高(生産量)、貢租・用水・普請・山林入会・家数・牛馬数、作物、普請場、薪取場、馬草場、肥やし、果ては農閑期における男女の仕事まで、凡そ村に関するものは全て網羅し、それを支配役人に差し出していたものである。

 我が故郷については、「安永二年(1773)信州佐久郡鎰掛村明細帳」と言うのが残っていて、このときの「高六十七石五斗六升四合、家数人別本百姓四十五軒、人別二百三十二人、馬九匹」等となっている。

 他に「御水帳」とから成っていて、「内壱冊は万治元年(1658)野田市左衛門様御検地百姓自普請仕り候」と記されている。即ち、我が故郷は、先祖たちの自普請(自力)で開拓した村と言う事になる。

 この「村明細帳」に基づき検地が行われ、「石盛(一反あたりの米の生産高)」の査定が行われ、このうち四割が年貢として徴収される場合、「免四つ」といい、これを「取米(年貢として徴収される米)」といい、西国に多い「厘(り)取(とり)」という方法であったということである。

 一方、東国では、田畑を各等級(上・中・下・下下)に別けて、夫々の一反当たりの米の収量を決め、それに反別を乗じて算定して「反取り」が行われていた。

 そして検地によって「縄打(検地)帳」が作られる。この「縄打帳」には、その田畑一筆ごとの名所(小字地名)、縦横間数、面積・位付け(等級)、名請人などが記されている。

 我が故郷には、寛永六年(1629)の「縄打帳」が残っており、この時の田畑は総計二町一反九畝十八歩で、分米合計十石八斗二升五合となっていて、名請人は三人と入り作一名だけであり、この頃が実質的な開村の時期であったのかもしれない。

 この「縄打帳」を基に、検見と言う実地検分によって査定された作柄を乗じたものが、その年の本途物成(本年貢)となる。

 ちなみに、太閤検地においては、上田を一石五斗、中田を一石三斗、下田を一石一斗としてランクが一つ落ちるごとに二斗ずつ下げる方法(二斗下り)が採用された。

 また、屋敷地一石二斗を基準とすること、下々田・畠・河原などについては「見計い」とされ、検地担当者の裁量によるものとされたと言う事である。これが農民から見ると賦課の不公平にも見られ、時には農民一揆の原因になることもあったと言う事である。

 更には、江戸戸時代には、下々田は九斗、畠は上畠を一石二斗として二斗下りする方法が採用されている。

 ただ、江戸後期には、支配側の手数を省く事と、受ける側の接待などの負担軽減、そして検見役人の不正防止のため、過去何年間の平均収量から定めた定免取りが行われた。

 勿論、定免取りであっても、凶作の場合は緊急に検見願いを差し出し、検見を受けている。近世最悪の凶作といわれる天保七年の凶作のときは、我が故郷でも九月に入ると検見願を提出し、次のような記録が残っている。

 「御影御代官大京左近様、田方御検見相願い、毛附(作付け)帳惣皆無に認(したた)め差出し、九月十五日御代官様御影御出立(中略)十六日当村御越しこれ有りて、神明前屋敷割東次右衛門田にて、御坪刈り御改め籾五勺之有り」と記されている。

 通常籾と米との関係は、平均の稲籾の収穫高が一坪あたり一升とすれば、一反あたり換算で三石となる。籾を米に脱穀をした場合は平均五分摺りなら、玄米の量は半分の一石五斗になると算定できるため、「一石五斗代」すなわち一反あたり一石五斗ということになり、「上田」に相当することになる。

 ただ、大名によっては干減引二割を行って、収穫高を二割減で算定三石を二割引の二石四斗に修正して、最終的に「一石二斗代」と算出する方法を用いる藩もあったと言う事である。この辺りに、検見役人に賄賂が介在する余地が有ったのだろう。

 したがって、我が故郷の田圃は下田だったとしても、天保七年の坪刈りの籾五勺は論外の不作だったと言う事になる。

 そして、「十一月十二日田方仮免状御渡し之有り、田方残らず皆無に相成り申し候」となったのである。(09.06仏法僧)