サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

54.無知の不安

 テレビに「ここが変だよ日本人!」というバラエティ番組がある。最近の日本人の行動や考え方について、在日外国人が物申す番組である。だいぶ以前になるが、「日本人は国際人になれるか」という副題が気になって覗いてみた。出演している外国人も日本人も、また出される意見も平均的なものとも思えず、またコメンテーターの方の中にも日本人のものの考え方を代表しているとは思えない意見もあり、只騒がしいだけの番組と思ってあまり見ていなかったのである。

 だからといってこの番組にけちをつけようとしているわけではないが、画面の中にテロップが入るのであるから、当然編集したものである。しかし視聴者はその背景も知らず、人気タレントも多いことから、かなり刺激的に影響を受けるのではないかと思っている。

 ところで、この前の放送で気になったのは、若者達が地理や歴史など直面する自分の生活に関わりない事には全く無知であることに驚かされた。もちろん取材の際にも意識的に「馬鹿っぽい」人を選んだのかもしれないが、アナン国連事務総長を知らない人が70パーセントを越えているというのには唖然とした。勿論、この数字が日本人の平均とは思っているわけではないが、好意的にみてアナンさんのお名前は別にしても国連事務総長という肩書きくらいは覚えていてもよいだろうと思うのであるが、それも少ないようである。更に大陸の位置を地図上で示せない人が多いのにも更に唖然とした。

 しかもその言い草が振るっている。「大陸の名前など知らなくても外国に行ける」というのである。即ち旅行会社に頼めば大陸の名前など知らなくても眠っている間に目的地までつれてってくれるというのである。確かにそれはそうである。それでも不時の事故により目的地に到着しなかったり、ガイドが事故にあった場合などよく見かける光景である。これをどのように解決するというのだろうか。出演した若い女性が「言葉など知らなくてもにっこり笑えば誰でも親切にしてくれる」というのである。以前は日本人の意味もない笑いが同意とみなされると戒められてきた。

 1から10までを英語で書けない若い女性が現地で乗ったタクシーの運転手の家に3週間泊めてもらったが何ともなかったというのである。何かあることを期待していたのかは分からないが、どこの国に行っても人の好意というものはあり、それを信じたいものである。多分その運転手は健全な家庭と、良識を備えた紳士だったのであろう。しかしその逆もあることも間違いなく、それを防御する手立ては本人の責任である。
 この女性まさか「ワン、ツー、スリー」を知らないわけはないから、多分算用数字を日本固有の文字と考え、ローマ数字、即ちT,U,Vを英語と考えていたふしがあり、こうなると知識の体系がどうなっているのか頭の中身をのぞいてみたい心境である。これで国際人を自認するのであるから恐ろしい。

 「歴史など知らなくても未来に向かって行動することのほうが大切だ」などという意見をしゃあしゃあとまくし立てる若者がいた。その若者はハワイでキャバクラを開くという。キャバクラというものがどんな商売なのか知らないが、言葉も知らない若者がどんなものであれ、ビジネスをしようとするときその国の慣習、文化、法律等を知らずにやれると思っているのだろうか。これらは全てその国の歴史的背景のもとに成り立っていることすらも分からないのだろうかと思うのである。

 「最近の若者は」というのは大げさであるが、その時出演していた若者は勇気があるのかそれとも無謀なのか、予期せぬトラブルを未然に防止するために最低限の知識を持とうとは考えないのだろうか思うのである。勿論、我々は学者ではないから、詳細な専門的な知識までとは言わない。しかし、物事を知る糸口程度の知識は知っておく必要があるし、義務教育などというものはそこまでと思っている。

 今の世の中は何事もスイッチポンの時代になってしまったようである。物事が成り立つプロセスなど関係なく、あたかもテレビでも見るがごとくスイッチをポンとしたら目の前に目的が達成されると考えるような世の中になってしまったのだろうかと思うのである。

 最近は性に対する認識も変わってきたのだろうと思うのであるが、ただ全くの無防備でよいはずがない。無知から犯罪に巻き込まれた例はマスコミで取り上げられた以外に数多く内在していると考えるとやりきれない思いがするのである。

 そもそも人間の恐怖には次の七つの恐怖があるといわれている。
・ 貧困の恐怖
・ 人に批判されることの恐怖
・ 病気や肉体的苦痛の恐怖
・ 人の愛情を失うことの恐怖
・ 自由を失うことの恐怖
・ 老いの恐怖
・ 死の恐怖
である。
 先日の若者達も決して恐怖心がないとは思われない。こうした恐怖が何によってもたらされるかといえば様々な不安要因が絡み合って来るのだと思っている。複雑に絡み合った恐怖の要因の源を知り、それを解消する努力によってこれらの恐怖は取り除かれるものだと思っている。

 私の山登りは全て単独行である。山登りは単独であれ、集団であれ全て自己責任である。ただ単独であるだけに細心の注意は払う。道に迷わないか、熊が出てこないか、谷底に落ちたりしないかなど出かける前は様々な不安が心の中を過ぎる。この不安を打消すのはこれから行こうするコースを綿密に調べて、体調に加え天候や自然条件のもっとも良好な日を選ぶことによってこれらの不安を解消するようにしている。

 勿論、恐怖が完全になくなるなどとは思わない。しかし、状況を正しく認識することで間違いなく恐怖は少しずつ取り除かれていくものであり、それが物事を学ぶことの目的であると勝手に考えている。ただ、その何かというものが容易に理解できるものではなく、無知なる故の不安をいつも感じている。

 今は若さゆえに、あるいは美しさのために誰にでも愛され、受け入れられるのかもしれない。しかし光陰矢のごとし、老いなどはあっという間に覆い被さって来て、無知であることの不安は生涯つきまとうのである。その不安を取り除くために余分の知識などというものはない。
 それとも今の若者は「無知である不安」を感じることすら無知なのだろうか。(01.03.仏法僧)