サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

116.「ムカシ」

 またまた唄のはなしである。今度は都はるみさんの「ムカシ」という歌で、これも阿久悠さんの作詞だが、作曲は宇崎竜堂さんという異色の組合せとなっている。

 出だしはこれまた純日本調と言うより古典調と言うことになるのだろうか、それが途中から一変してコミカルな曲になっている。歌詞は「ムカシは何でもよかった」「ムカシあなたは強かった、美しかった、華やかだった」と盛んに持ち上げ、「ムカシと言うお化け」に取り付かれないようご用心と、なんとも人を食った歌詞である。

 しかし考えてみると確かに私などもかなり「ムカシ」と言うお化けに取り付かれているようである。早い話がこの「雑言」、最近は無闇に「ムカシ」が増えたような気がしないでもない。以前は意識してナウい話題を取り上げるようにしていたが、そうそうは消化できないところまできたのかもしれない。考えてみると、十年一昔と言うが、人生既に半世紀以上も生きてしまうと頭に浮かぶことと言えば「ムカシ」の事ばかりである。

 尤もここで「将来を考える」と大見得を切ったところで、将来が来るまでに終わってしまったら考えるもへちまも無いことになる。そこでついつい「ムカシ」の話になってしまうが、「ムカシ」の話がでるとなぜか全て華やかで、美しくなるから不思議である。
 「あの時は辛かった」などと顔をしかめて言っても結果は自慢であり、喜びであり、それ以外の何ものでもない。結局、歳月と言うものはすべてを美化する不思議な魔力があるようである。

 然らば本当に昔はよかったのかと言えばそれほどでもない。我々の時代でも戦後の食糧難では飢えて死ぬほどの事もなかったが、今のように食わされて死ぬほどの事は勿論無いとしても自慢するほどのこともなかった。思えば何から何までが無かった時代だが、それだけに欲望だけは常に持ちつづけた時代であり、その大部分を誰もが手に入ることが出来たことはそれだけでもよき時代であったのかもしれない。

 それならば、今が「ムカシ」と言える時代になって果たして「ムカシはよかった」と言えるか考えてみた。尤もその頃はとっくにこの世からおさらばで、余計なことだとお叱りを受けそうだが、せめてムカシを知っている一人として言い残しておくのも必要ではないかと思うのである。

 先ず、我々の「ムカシ」と今とを比べて、生活のテンポが格段に速くなっている。これがそのまま今後も続くかといえばそうではない。ただ、情報や交通などのように既に行くところまで行ったものを押し戻すことは出来ないが、日常生活そのものはもう少しスローテンポになるのではないかと思っている。

 これは好んでスローテンポになるということではなく、財政が破綻することで全ての流れがスローになるということである。このことがあながち悪いこととも思えず、「ムカシは早くてよかった」という感慨にはならないのではないかと思うのである。
 思えばこの半世紀、何から何まで走りすぎた。どう走ってみても1年は365日、年に1回四季は巡り、1日は24時間なのである。

 ムカシ「猛烈からビューティフルへ」「狭い地球、そんなに急いで何所へ行く」などといわれたが、その割には急ぎすぎて、その結果が今だとすればこれからのスローな将来の方がよいのではないかと思っている。

 尤もこの頃になると、昔を懐かしむ年寄りがめっきり少なくなる。今まで世界に誇った日本人の平均寿命が急速に低下し、生き残った超高齢者の元気さがだけがやけに目立ち「ムカシはよかった」と言う前に「ムカシの人は元気だ」と憎まれ口を叩かれなければ良いがと思うのである。

 政府の財政破綻とともに、道州制が取り入れられ、地方自治体独自の住みやすい街づくりを競い合い、住みにくい街には人が集まらず過疎化が進むことになる。同時にNPOを含めた「ムカシ」の勤労奉仕が復活することになるが、居住地の選択は本人の自由で、その上で「ムカシ」を振り返ってどちらが良かったかは本人が考えればよいことである。

 更に根本的変わるのが雇用形態である。今までの「ムカシ」は終身雇用という日本的雇用形態にどっぷり浸かったまさに「サラリーマン天国」であったが、これからは実力主義である。これがあながち悪いということではないが、入る前まではガリ勉で、後は流れに乗ってスーダラしていれば良いと言うサラリーマンには厳しい時代になるかもしれない。

 その点、実力のあるものにとっては天国で、若くしてこの世を謳歌するサクセスストーリーが飛び交うことになるのかもしれない。尤もこうしたことはもっぱらアメリカ型のマネーゲーム族の世界の事であり、日本人の大多数を占める一般労働者はもっぱら生活に根ざした江戸時代さながらの地道の仕事に従事することになるが、果たして「ムカシはよかった」といえるのはどちらになることやら。

 ところで生活面ではどうかといえば、最も顕著なのが食生活である。これは外貨事情にも拠るが、今のファーストフードに変わって我々の「ムカシ」に近づき、かつて代用食といわれたスイトンや野菜の煮物が食卓の中心を占めてことになり、この面では我々が良かったと言う「ムカシ」に逆戻りである。

 更にもう一つ逆戻りするのは電気である。これは我々市民にも責任の一端があることだが、電力会社の設備投資とエネルギー政策の失敗から全国的に電力不足が生じて再び「灯火管制」が敷かれ、夜がそれだけ長くなることになる。

 ただ、この事が幸いし、人口が若干上昇に転じ、更に日本国内でみれば自然環境は改善され道頓堀川にも白魚が泳ぐことになる。残念なことに世界の供給国となったお隣の中国が、かつての高度成長期の日本の何倍もの汚染物質を垂れ流すことになる。
 これらが気流と海流に乗って大挙して日本に押し寄せることになるから全体としての環境は悪化することになり、「ムカシは良かった」と言う事になる。

 一番問題なのは男女関係である。貞操観念などという昔の遺物を持ち出すつもりはないが、今までの「ムカシ」から、これほど変わったものはない。平安時代以降、この国はもっぱら男社会であったが、これからは男の体力を必要とする時代ではなく、頭脳と感性の時代となり、生活力の主体が女性に移ることになる。
 従って、男は本能と快楽の対象に成り下がり、千数百年ぶりに「通い婚」が復活することになる。はてさて、その頃生きていたら果たして「ムカシはよかった」ことになるのやら・・・。(ほんまかいな?)(03.03仏法僧)