サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

194.文無し生活

 最近奇妙な事に気が付いた。普段出かけるときに財布と言うのをまったく持って歩かなくなったのである。
 もともとそれほど持ち合わせていたわけではないので、持っていようが、いまいが同じ事だが、それでも中には幾ばくかのお金と、クレジットカードが入っていた。

 それでは出かけるときにどうするかと言えば、出かける目的により必要とする金額をカミさんに言ってもらうだけである。いわゆる子供のお小遣いと同じである。

 何故そうなったかと言えば、主に身体上の理由で、出かける目的が唯漠然と出て、思いつきで立ち寄る事が出来ないからである。出かける場合には、乗り継ぎ、階段、坂道など様々な障害を考えて、それらを無難にクリアー出来るかどうかと言うことは重要な要件である。

 したがって、あらかじめ考えたコース以外の場所に立ち寄るなどということは殆どなくなった。目的が限定されれば、おのずから出費も限られてくる。勿論、そう言う欲望がまったくなくなったわけではないが、途中でちょっと一杯などと考えても、それから自宅に帰り着くまでの事を考えると、迂闊によい気分になってもいられない。

 またこの歳になると、そもそもなにを着ても実に似合わない。そうなると、ことさら着飾る気にもなれない。その上、かつての生活習慣病の前科者として、カロリー制限をきつく言われており、味覚を尺度に食べ漁る事を放棄し、四年間、これを忠実に守ってくると、今度はこっちの方が習慣になってくる。

 勿論、この背景には、年金生活者と言うことで、乏しい生活費のやりくりの禁欲生活と言う意味合いも無いではないが、そればかりではない。

 以前、市役所に用事で出かけたことがあった。駐車場に車をとめて、いざ帰る段階になって、駐車場が有料である事に気が付いた。ところが、出掛けの予定ではこの事は全く考えの中に入っておらず、しかもポケットの中にも、車の中にも一円のお金もなかったのである。

 急いで降りて、車の床をくまなく探したが、この日に限って何も見つからなかったのである。途方にくれて立っていると、やがて出庫の車がきたので、急いで自分の車を横にどけて、駐車料金の精算をしている人に恐る恐る声をかけたのである。

「すみませんが、お金を持っていないので、100円頂けませんか」
 すると、何も言わずに100円玉を渡してくれたのである。確かに高々100円であるが、普段から市営駐車場の料金が高すぎると言う不満が市民に中にあり、それにも増して、100円を余計払わなければならなかったこの人の心境は穏やかなものではなかったに違いない。

 この場合、常識的には「貸して頂けませんか」と言うのは常道であろうが、100円と言う金額である事と、それを返済する方法を考えた場合、「頂けませんか」と言う法が適切と考えたのである。

 ただ、私にしてみると、この時をさかいに、不時の出費に対する警戒心はなくなってしまったような気がしている。勿論、他人の財布や善意を当てにしているわけではないが、人間の欲と言うものは制限がないもので、同時に見栄も同じではないかと思っている。

 人前で恥をかかないと言うのは、見栄の裏返しであって、礼節を欠くと言う人間の本質のものではない。そのために、余計なお金を持ち歩く事になるが、自分の責任を果たすために最低限のものを持ち合わせていればそれで事足りるのではないかと思っている。

 いささか抹香臭い話になるが、般若心経に中に「心無ケイ礙 無ケイ礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃(しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん)」と言う一節がある。
 確か、意味するところは「心に拘りが無ければ、恐怖も無い。一切の妄想から離れて、究極の安寧の境地に至る」だったような気がする。

 高々100円で、「究極の安寧の境地に」至れれば、これほど結構なことはないが、欲望の発露を制限される身になって、いささか得をしたような心境である。

 それで生きていて何が面白いと言われれば、確かに面白くはない。面白くは無いが、詰まらぬ事も無い。ただ、敢えて物や他人の恩恵を蒙らなければ、世の中面白くはないと言う心境では無くなったようである。

 昔から、「文無し」という言葉があるが、この「文無し」とは、「所持金が少しもないこと」と言うことだが、意味合いからするとあまり感心した言葉ではない。

 現在の私の状況は、正に「文無し生活」であり、人間、ここまでは落ちたくはないと思われるかもしれないが、本人はいたって清々している。

 一方、「奢侈」と言う言葉もあるが、この言葉の意味は「度をこえてぜいたくなこと。身分不相応な暮らしをすること」と言うことで、世の中いささか奢侈に傾いているのではあるまいか。

 勿論、この歳をして、度を越えた贅沢など望むべくも無い。今更、世をすねているわけでも無いが、せめて、社会の片隅で、誰に遠慮するでもなく、身分相応な暮らしをすることが出来れば、持って瞑すべしではないかと考えている。

 もっとも、これでは国のGNPに貢献もできないが、今となったら、せめて世のお荷物にもならならないことでご勘弁頂けたらと思うのである。(05.07仏法僧)