サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

212.女々しい

 子供の頃、泣くと親父から、「男のくせに、女々しい、男はむやみに泣くものではない」などと叱られたものである。

 勿論、我が家が、かつて武家の家系だったと言うことではなく、りっきとした正真正銘の百姓である。また、取り分け我が家のしつけが厳しかったわけでもなく、どこの家庭でも同じようなことが行われていた。

 ただ、こう言われると、子供心にもえらく恥ずかしい思いがして、無理やりにも黙ったような気がしている。この「女々しい」と言う言葉も今では死語になってしまっただろうか、近頃聴くこともなくなった。

 ところで辞書によると「女々しい」とは、「男のくせに、まるで女のように心や態度が軟弱で、未練がましく、意気地がない」と言うことになる。

 確かにここに列挙した内容は、男の風上にも置けない、男と言う前に人間の屑みたいな男と言うことになるが、ただ、ここで、「女のような」と言うところが問題で、女性がすべてこのような人間であるかのような表現が問題と言うことになる。

 こういう言葉が罷り通ったのは、かつての封建制度においてであり、戦後、新憲法の下に男女平等がうたわれて、何時しか消えてしまったのかもしれない。

 もっとも、最近は、「男女共同参画社会法」と言う法律の基に、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会を形成することをいう」と言うことになるから、「女々しい」などと言うことを言えば文字通り国賊者と言うことになる。

 一方、「雄々しい」と言う言葉もある。早速辞書で調べてみたが、こちらのほうは明快な回答が見つからなかった。

 ただなんとなく、いささか攻撃的ではあるが、豪胆にして明快、かつあらゆることに対して、逃げずに誠実に立ち向かっていくなんて、今の時代では薬にしたくともお目にかかれることも出来ない人間像と言うことになり、こちらの方はむしろ最近の女性像に合致するような気もしないでもない。

 しからば、最近の男が何故斯くも「女々しい」くなったかと言うと、日本が戦争を放棄したためではないかとこちらも勝手に思っている。

 翻って、この国は、男の支配する時代は常に混乱した。この傾向は、はるかに遠く卑弥呼の時代以前からであり、一旦は卑弥呼の出現により治まったが、卑弥呼亡き後は再び、混乱し、娘の台与が立って国中が治まった。

 しかし、その後は、一時的に安寧の時期もあったが、武士の台頭とともに、この国は常に男の支配する国となり、戦乱に明け暮れたのである。すなわち、戦乱こそ男の存在価値があり、これによって男尊女卑の考え方が定着し、つい60年前まで続いていたのである。

 今の一年は昔の何十年にも匹敵する速さで時代は進んでおり、戦後60年余りに渡って、男の本領である、武人として必要としない時代を経過し、総じて日本人の男が「女々しい」くなったとこれも勝手に思っている。

 話は変わるが、大晦日の「紅白歌合戦」と言う番組を見ていて面白いことに気がついた。面白いといってもOZUMAのコスチュームのことではない。

 今頃、音楽的文盲がこんなことを言うと、「なんだ、身の程知らずに」と思われるが、年代により曲の表現が、全く異人種の曲のように違うということは言を待たない。

 それは都都逸の時代から西洋の音階になった時代であっても同じだったから仕方がない。ところが、詩の内容が、われわれ古き良き(?)時代の人間と、今の時代ではほとんど変わりなく、押しなべて恋歌なのである。

 すなわち、「演歌世代」が、眉間に三本皺を寄せて歌う演歌は、男も女も「女が男を恋る」恋歌である。理不尽な男を追って、港から港へ、北に向かって健気に切ない女心で追い求めていくというのが一般的な構図である。

 これは、かつて、女性が虐げられた頃の産物で、男は自由に女をもてあそんでいた頃の名残と言うことになるのだろうか。

 一方、最近の若者たちの曲も、同じく男も女も恋歌である。しかし、同じ恋歌であっても、こちらは、男が女を恋求める恋歌と言うことで、ここが根本的に異なるのである。

 昔流に言うなら、「何時までも女の尻など追いかけて何たる女々しさ」と言うことになるが、なぜこうなったかと言うと、かつて虐げられた女性像は、「男女共同参画社会」を持ち出すまでもなく、今では様変わりし、愚にもつかぬ男なぞ追い求めなくとも、いまや選択権は女性側にあるからである。

 もっとも、「演歌世代」から、一気にここまで変わったわけではない。北島三郎さんの歌のような人生の応援歌のような歌もあるが、その間に、「演歌世代」の生き方や、世相を痛烈に批判したフォーク世代と言うのがあったのである。

 このフォーク世代の親に育てられた今の若者たちが、親父を批判するでもなく、勿論「演歌世代」のような粋なもて方も出来ないということで、ただ、ひたすら軟弱に、「女々しい」く、わけの分からない比喩や意味不明な外国語を並べて、女の尻を追いかけているというのが今に若者たちの曲だろうと勝手に思っている。

 もっとも、彼らにしても、長い間には、忘れていた「武力」をドメスティックバイオレンスと言う形で発揮する「女々しい」男もいるようだが、近頃では女の方も負けてはいない。たかるだけたかって、用済みになればあっさり熟年離婚と言う手があるのである。

 そこまで待てない人は、切り刻んで、生ごみと一緒に捨ててしまおうという世の中で、とてもかつての「女々しい」さなどは見当たらない。

 こまで言うと、ざまあ見ろと言いたいところだが、男にも女にも相手にされない用済みの僻みから、両方の悪口雑言を並べてみたが、われわれ無力のジジイどもとしたら、ひたすら「女々しい」く日陰に生き延びて、お迎えを待つ以外にないということか・・・、クワバラ、クワバラ。(07.25仏法僧)