サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

120.幻のメダル

 三つ子の魂百までもという諺があるが、それほど大げさなものではないにしても、絵とか音楽と言うものは誰でも中学生頃まではやっているが、カラオケなどは別として、その後再び音楽や絵画を生活の一部として取り入れる人は少ないようである。

 私の場合、それが趣味といえるかどうかは別として、子供の頃の思いが繋がっているものが二つある。その一つがこのサイトの「孤老雑言」で、これに付いては「豚、木に登る」で書いている。もう一つは同じくこのサイトの「シルバー画廊」に掲載している絵である。考えてみるとやけに薄っぺらな人生の感じがしないでもないが、今となってみると私の余生を支える大きな柱のような気がする。

 尤も、絵の方は中学卒業後、40代までは見向きもしなかったが、50に間もなく手の届く頃、たまたま越してきた隣に絵を画く人がいたことから、三十数年ぶりに再び絵筆を持つことになったのである。とは言え、もともと絵を画くことは嫌いではなかったが、取り分け上手でもなく今でもそこのところはあまり変わりはない。

 それでも子供の頃はそれなりに画いていて、学校の展覧会などでも張り出されるのは常連であったかもしれない。そうした中で、今までに公式に私の画いた絵を評価してもらったことが二回ある。その一つは再開して十数年経って、隣の宝塚市展に入選したことで、この時の作品は「シルバー画廊」の「戸隠錦秋」と言う作品である。

 尤もこの作品が自分の画風に嫌気がさし、現在の矢野教室に通うようになったきっかけの作品でなんとも皮肉なものである。ここで画風などと大層なことを言うようだが、絵というものは、自分の性格がまともに出てくるもので、自分の弱点を見るようで居たたまれない気持ちになるものである。

 私がある程度絵を習ったのは中学の頃の美術のO村先生である。インターネットで調べると、今でも小諸高原美術館に先生の作品が収蔵されているというので、信州の美術の先生としたらかなり重鎮であったように聞いている。

 O村先生の絵は私に取っては文字通り学ぶべき絵であり、目標でもあった。おおらかなタッチと明るい色彩は今でも私の絵の理想として心の片隅に残っている。
 中学時代に同級生4人ばかりでO村先生の指導を仰ぎながら美術部を作り、時々スケッチなどして歩いていたのである。その頃、我々美術部のメンバーに対してO村先生から長野県児童県展に出展する作品を提出するように指示があったのである。 はっきりした時期は忘れたが、多分夏休み前であったと思う。

 それぞれのメンバーが張り切って画くことにしたが、私は棚からぶら下がったカボチャを下から眺めたところを画いたのである。出来上がった作品は我ながらかなり出来の良いものに仕上がったが、更にO村先生が手を加えられ、出展したのであるが、この時、入選したのは私だけで、このことは朝礼か何かで聞かされたのである。

 この年の児童県展は長野市で開かれ、当時未だ学生だった兄がこの展覧会を見て、私の作品も見ているので間違いは無かったと思っている。
 当時、県展入選の価値というものがどれほどだったか知らないが、私の中学で初めての出来事で、子供心にもかなり得意げであり、いずれ何らかの入選証が届くものと期待していたのである。ところが待てど暮らせどなしのつぶて、いくら待っても何の音沙汰も無かったのである。

 児童県展なんてそんなものと諦め、入選と言う事実だけを胸に畳み込み、その後この話題に触れることも無く歳月が過ぎたのである。
 O村先生は私達が卒業したその年に小諸の中学に転勤になっていて、高校に行ってからも友人と一度、訊ねたことがあった。その後先生と会うことも無く時が過ぎ、6年前の平成9年に始めて出席した同窓会で元気な姿でお目にかかったのであるが、そのときもこの話題に触れることも無く、翌年に先生は他界されと聞いている。

 ところが先月、我が故郷で再び同窓会が開かれ、連絡の取れる人90人あまりのなんと60パーセントが出席して、大いに盛り上がったのである。私も二年ぶりに参加して、卒業以来半世紀ぶりの再会を果たした何人かの友人にも合うことが出来たのである。

 この宴たけなわの時、当時の美術部員で、私の実家にも近かったK君が私のところに来てしばらく四方山話に話が弾み、話題がO村先生に移った時、彼の口から思わぬことが飛び出したのである。

「なんだか知れないが、俺、O村先生から県展入選証なんてメダルだかバッチを貰ったよ」と言うのである。それで私が抱いていた謎が半世紀ぶりに解けたと思ったのである。

 K君と私は家が近かったこと、県展にも出展し、もう一人の部員M君を交えた同じ集落の三羽烏といわれたいずれ劣らぬ悪ガキだったこともあり、O村先生か誰かが私とK君を取り違えていたのである。

 私が児童県展というものを私なりに考えていたように、K君もK君なりに捕らえていたために、この事実を半世紀に亘って明らかにならなかったのかもしれない。勿論、K君に落ち度があるわけでもなく、O村先生亡き今となってはこの事実を確認するすべも無いことで、今更メダルが欲しいとも思わないが、なんとも罪作りな話であった。

 尤も、かのチャーチル曰く、「過去に拘ると未来を失う」ということだが、失うほどの未来も無いとしても、当時の友達の中で、趣味とは言え、今も絵を画いているのは私だけである。児童県展入選のメダルは私にとって幻のメダルであったかもしれないが、私には、入選の事実と三つ子の魂が未だに私に残ったのであり、それはそれでよかったと思っている。

 私にとって少年時代の幻のような出来事が、紛れも無い事実として確認できたことは、二年ぶりに参加できた同級会の最大の収穫で、気分晴れ晴れとして「土方の掘った坂」を下ったのである。(03.05仏法僧)