サイバー老人ホーム

242.祭り好き

 日本と言う国は、社会制度が変わると、それ以前のものは総て廃棄してしまう国民性があるようだ。早いところで、高度成長が始まった昭和30年代の後半では、それまでの生活様式につながるものは次々に廃棄された。

 その前の昭和20年には、戦前の軍国主義につながるものが、跡形もなく取り除かれた。そして、幕末明治新政府になってから、江戸時代の封建制につながるものは、見るも無残に消え去った。

 最近でこそ、一部の地域で注目されているが、戦後各地で廃棄されたものとして祭りがある。日本人は、もともと大の祭り好きであり、最近手に入れた万延元年(1860)の「江戸古地図」の復刻版によると、この中に「江戸年中行事」と言うのが載っている。

 それによると、一年間に、江戸市中で執り行われた、祭り事は、凡そ二百である。先ず最初は、元日に「御一門方並びに御譜代大名諸御役人御礼」から始まり、以下国持大名、大名嫡子の拝謁と続き、10日には「上野御成り諸大名御装束御参詣なり」、各大名は紋付裃は勿論、あの長さが一丈もある、長袴で盛装して参詣に向ったと言うことである。

 こうした将軍が直々に御成りになり、諸大名が参詣するのは、芝増上寺を含めて、年四回で、後は、寺社の祭礼であり、長屋の熊さんやはつぁんのお出ましとなる。

 もっとも、中には十月四日の「小塚原御仕置き者の為回向院にて施餓鬼」など言うのがあって、祝って良いやら、複雑なものもある。ちなみに施餓鬼とは、死後に特に餓鬼道に堕ちた者のために食べ物をお布施し、その霊を供養する儀礼の事である。

 そもそも、江戸古地図によると、江戸全域で、六割が武家地、二割が寺社地、残り二割に百万の熊さんはつぁんが押込められていた。ただ、寺社地については色分けしてあり、とても二割では及ばないのではないかと思うほど多い。従って、それだけ祭礼も多かったのだろう。

 これは、あくまで、江戸や京都・大阪などの大都市町方の場合であって、然らば遠国大名のお膝元ではどうであったかと言うと、武家の由緒筋目の源泉である先祖菩提寺の祭礼は何よりも大切であり、盆暮れのお参りは勿論、先祖の命日の法要は欠かさず行い、下級武士でも一年間に菩提寺に収めるお布施は、一両を越えていたといわれている。

 また地方武士にとっても、家親族関係が濃密であり、子や孫の成長にしたがって行われる儀礼行事が頻繁に行われた。これは百姓町人でもおなじであるが、武士の場合、連座制による親族関係が百姓町人より厳しく影響を受けていたからである。

 したがって、家の格式を維持するためのも親戚縁者の子弟の成長にかかわる祭事には身分相応の祝儀を出しており、これを武士の身分費用と言うが、菩提寺祭礼と合わせて武士の収入の中で大きな割合を占めており、幕末では減らすに減らせない大きな負担となっていた。

 それでは、我が百姓たちはと言うと、そうは行かない。寺などと言っても、地域の村(組合村)のなかに、一つあるか無いかである。

 それでは、村方の祭りと言えば、その程度のものかと言えばそんなことはない。昔の人は、一年を二十四節季に分けて生活していた事はよく知られている。此の二十四節季とは、一年を春の彼岸、秋の彼岸を境にしてそのあとを、夫々十二等分しているのである。今でも、その名残として、夏至や冬至、立夏・立冬など時々に出てくる名前である。

 此の二十四節季は、農作業を行うためには大切な境目であり、百姓たちは、何らかのお祝いをしている。これ以外に、村特有の仕事始め、仕事納め、雹祭り、風祭り、鞴(ふいご)祭り等々と欠かさない。

 更に、個人的なもので、出世祝いと言う子供の生まれたときの、産(うぶ)飯(めし)に始まり、名付祝い、初誕生、各誕生祝い、帯の祝い、四つ身祝い、袴着、成年式(元服)(男15際、女13歳)、厄年、そして古希、喜寿、米寿、卒寿、白寿とざっと数えてみても三十を下回らない。

 さて、百姓にとって、最大のお祭りと言うのは婚礼であろう。それが自分ので有ろうが無かろうがである。今では婚礼に御呼ばれするのも、差出す御祝儀の額のほうが気に成るところであるが、私の子供の頃でも、村中での婚礼は一年に一件有るか無いかであった。

 当日は、表の戸を総て開け放ち、庭には村中の老若男女が集結して、嫁の容貌は勿論、持ってきた嫁入り道具の高を巡って、煩い煩い。

 さすがに私の子供の頃は、丹波哲郎さんの言う「けつがでかくて、沢山子供が生めれば」などと言うのは無かったが、当時の日本人は、総じて鼻ぺちゃであり、鼻の高さを褒めるのは、最高の褒め言葉であった。

 ところで、婚礼の記録と言うのはそれ程残っていない。安政七年(1860)に美濃国多芸(たき)郡島田村の富農服部家が婿養子を迎え入れたと言う記録が残っていて、嫁を貰う場合とは多少異なるかもしれないが、当時の婚礼の模様が忍ばれる。

 先ず近親者九名が寄り合い、婿候補源三郎を引き取り、助次郎と改名の上、結納を交わすところから始まる。

 結納にあたっては、媒酌人は、袴羽織帯刀のうえ、「上下(かみしも)料金三百疋(金三分)、扇子一箱、鰹十節、差樽一荷」を持って、「今夕より媒酌人宿まで迎えに参る、宿にて酒肴出す。但し婿方と印して、祝儀を金二朱当てだす」となっている。

 百疋(ひき)とは祝儀などの場合金一分の呼称でのことで、上下料金と言うのが結納金であったのだろうか、三百疋の結納金と言うのは、今の感覚でも聊か低いような気がする。

 ただ、百姓で裃を身に着けられるのは、役筋と言われる村役人に成れるものだけで、平方と呼ばれる並の百姓は認められない。

 この日、親類惣代と祝杯を交わし、婿側親類はお引取り願い、以後の婚儀には出席しない。身分の差をまざまざと見せ付けられたような取り扱いである。

 これからがいよいよ本座敷であり、床には「三福対 松竹梅」の軸が飾られ、「床脇、嶋台(布袋の唐子遊び、業平吾妻下り)、南の間、床 掛け物、刀掛」と並び、その前に婿殿は畏まって居並んだことだろう。

 婚儀の行われた美濃国多芸(たき)郡島田村は、現在の岐阜県南西部の三重県に接した地方であり、伊勢桑名の港にも近くと言うことも有り、凡そ海のものなど縁のない我が故郷ではついぞお目に掛れない最高のご馳走が振る舞われた。

 この婚礼は、二月二十八日に婚家家族親類に始まって、二十九日には、この婚礼に関わった人、三月一日は町内の人々凡そ三十人、そして同夜は、女中衆祝い、婚家親類筋の女性と続き、二日に近所の者の招待があって終わりに成る。

 江戸時代、頻繁に行われた祭り事は、これを通して人々の結ぶつきを強めていったのだろう。世の中から祭りが消えて無くなるのに合わせてこの国の人々の結びつきが希薄になっていった。もしかしたら、今が一番お祭り騒ぎが必要なときかもしれない。(08.07仏法僧)