サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

191.マスコミ裁判

 私が現在の住いに関東から移り住んだのは昭和60年である。この頃勤務先の大阪の都心に通うには、まだ夜も明け切らないうちに家を出て、7時前の列車の乗らなければ間に合わなかった。

 当時はまだ、福知山線は一駅前の宝塚までは電化されていたが、其処からは単線であり、しかもディーゼル機関車が轟音を上げながら貨車を引っ張っていた。

 朝晩はそれでも1時間に1本程度の列車があったが、日中は2時間に1本程度の時もあり、のどかと言えばのどかだが大阪まではちょっとした小旅行の気分であった。
 帰りになるとあちこちにアテとワンカップを持ったサラリーマンが乗り込み、のどかに話に花を咲かせていた。

 当時、やがては複線化されるという話は聞いていたが、何所を見ても複線化工事など見当たらない。どうせ私の現役時代に間に合えば儲けもの程度に思っていたら、ある日近くの山の横腹に穴があいたと思ったら、あれよあれよと言う間に複線化工事が始まり、翌年にはもう開通したのである。

 工事は二駅先の道場までトンネルの中で行われていたため目にはつかなかったのである。この結果、それまで1時間近くかかっていたもの30分程度短縮し、しかも運転間隔はようやく通勤電車の15分間隔に増加したのである。

 それまで大阪の人に私の住いを言うと、「ああ、あそこにはキャンプに行った事がある」と言う返事が殆どで、いわゆる通勤圏の住宅地と言う感覚ではなかった。

 福知山線の複線化に伴い、今では日本一の人口増加率を誇る三田市を始めとする大規模住宅開発が次々に行われ、加えて東西線との乗り入れもあり、かつては国鉄のお荷物であったものが、JRのドル箱路線に変化した。

 そして平成17年4月25日、塚口―尼崎間で前代未聞の大事故が発生し、600人を超える死傷者が出た。我が家のお隣でも犠牲になられた方がおり、様々な人がこの事故の痛ましさを口にして、静かな郊外の住宅地は修羅場と化した感があった。事故現場の献花台には今も弔問に訪れる人の影が後を立たない。

 マスコミは連日この事故を取り上げ、あらゆる角度から事故原因を追求している。ただ、この事故ほど日本人のモラルが問われたとは近年なかったのではなかろうか。

 先ず最初に、事故車両に乗っていた運転手2名が乗客の救助をせずに現場を立ち去り、そのまま職場に出勤、運転業務に就いていた事が槍玉に上げられた。

 続いて、事故当日、JR西日本の天王寺車掌区の社員がボウリング大会を開いて、参加した四十三人全員が事故発生を認識、うち少なくとも十三人は死傷者が多数出ていることを知っていたことが、分かったということである。

 その後、JR西日本が「不適切」とした社員の行動の数々は、神戸支社長杯ゴルフコンペに参加した姫路鉄道部長をはじめ、国会議員をも巻き込んで、事故の情報を知りながら、これらに関与した社員は延べ百八十五人とされている。

 勿論、これらの行動を是認する考えは毛頭ないが、こうした事故や不祥事がおきると決まって会社幹部が一列に並んで最敬礼をするシーンを最近は目にする事が多くなった。これらの最敬礼は一体誰にしているのか、勿論被害者や広くは国民と言う事になるが少し疑問に思っている。

 作家の宮本輝さんの事はこの「雑言」でも時々取り上げたが、氏の作品に様々な示唆に富んだ挿話が出てくるが、その中に「正義のうしろだてをする事を商売にしているやつらがいる。広く言えばマスコミもその中に入る」と言うのがある。

 この「うしろだて」とは、「陰にいてあと押しをし、援助すること」と言うことらしいが、最近のマスコミ報道を見るにつけ、自ら「正義のうしろだて」を任じ、正義を旗印の横暴を極めているように見えてならない。

 物事を推し進めようとした場合、純粋に正義のみを取り出して成就できるよな事は世の中にそれ程多くはない。唯一例外がないと言っても良いのが人命尊重ではなかろうか。通常は必ず相反する様々な要因が現れて、推進を阻む事が多い。

 今度の事故で、あれだけ多くの尊い人命を失ったわけで、結果として人命軽視のそしりを招いても仕方があるまい。

 ただ、企業活動というものは人間が作り上げたシステムであるにもかかわらず、個の力ではどうにもならないところがある。今度の場合、同乗していた運転手もおそらくそのときには心の葛藤があったに違いない。
 しかし、その前に就業規則に定められた勤務に対する責任、また自分に割り当てられた職場での正常な運行義務も大きな責任であったはずである。

 また、幹部においても、安全第一であることは当然としても、同時にスピードアップ、定時運行のための時間励行は利用者の要請でもあったはずであり、多分、JR社員等しく負って来た使命であったであろう。その結果が世界の誇る日本の鉄道事業を実現したと思っている。

 また、JR社員の遊興問題についても、非常識と言う前に、JRにはJRの組織があり、それぞれの業務分担と責任権限の範囲が決まっているはずである。その権限を逸脱して、個人の裁量の範囲に任されているものなど限られている。

 これだけの大事故だからといっても、それぞれの個人の状況などわかるまい。そうでなければ国として非常事態か喪に服す通達でも出すべきではなかったかと思う。

 寧ろ丁度この時期ゴールデンウイークに重なり、帰省や海外旅行に出入りする人々の風景を各マスコミは取り上げていたが、JR社員のモラルを口にするなら、「美味しかった」「楽しかった」などの観光客風景を取り上げる前に、この時期のマスコミ各社のモラルを考えるべきではなかったかと思っている。

 また事故現場の取材で、献花台に訪れた弔問客の中に、明らかに変装した同一人物の姿があり、殊更悲劇をあおりたてるマスコミ各社の加熱によるものではないかと思っている。

 更に、この事故の救助活動に直接携わった人の話では、車内に取り残された携帯電話が鳴った事についても、針小棒大に取り上げられたという事を聞いている。

 昔、社会主義国家などで、人民の中から選ばれた代表や、時により多数者が少数者を私的に断罪する「人民裁判」という一種のリンチがあったが、今、マスコミがこの種事件を取り扱う姿勢は、「マスコミ裁判」とも言うべきマスコミの唱える正義で、その責任者を罰しようとしているリンチように見えてならない。

 福知山線事故はあれから1ヶ月がたとうとしているが、ここに住む人たちにとっては全く関係のないところで、なんの責任も無い「正義のうしろだて」どもが勝手にわめき散らし、役人は事故の責任逃れのために原則論を振り回している。

 そして、使命感と、規律遵守との狭間に挟まれて、必死に電車を制御しようとしてレバーを握ったまま逝った運転手と、その家族達の悲しみを押し殺した慟哭が聞こえてくるようである。(05.05仏法僧)