サイバー老人ホーム

333.ライフワーク(5)

 出版すると云っても、最初に問題となったのは果たして我が故郷に物語にする様な出来事が有るかという事であった。当時の村はせいぜい五十軒程度であり、人口は二百五十人程で凡そ見るべき文化財なども見当たらない。

 結局、新田開発と、度重なる自然災害と、それに伴う飢えに明けくれた祖先たちの生活を最も飢饉の酷かった天明期を中心に纏める事にした。

 次が、出版するとなると、出版社を通じた場合は、百万単位の費用がかかる。これを、高齢化と、過疎と、読書離れの時代の我が村人たちがいくら頑張ってもその費用を補うこと等は足元にも及ばない。

 勿論、今迄も自分の作品を出版社に何度となく送ってみたが、何年か前に佳作に選ばれたのと、『山鳴り』も同様にN文学館の原稿募集に応募して「特別賞」に選ばれたが、これとて膨大な出版費用を負担することには変わりない。芥川賞作家の田辺聖子さんが、時々述べられているが、日本の出版界と云うのは素人が考えている様なものではないらしい。

 七年前、『三寅剣の謎』の出版を思い立った時に偶然探し出した出版社で、「お手軽出版」のキャッチフレーズで私の様な出版を志す人の作品を格安で出版する事を引きうけてくれた出版社が見つかった。

 それまで経験にした出版社に比べ、三分の一以下という安さであった。勿論、書店流通も可能であり、『三寅剣の謎』では書店流通有りとし、発行部数を百五十部としたのである。
結果は、筆者用五十部までは何とか捌けたが、書店を通したものは大方は返品となった。

 これを境に、出版界の難儀さが痛切に分かったが、今度の場合は費用の面でそれよりもさらに下回らなければならない事になる。

 勿論、出版費用は私がすべて負担し、読んで頂ける人に無償で配布するのが筋かもしれないが、現役時代で有ればこの程度の道楽は自分の責任で背負うのが当然であったが、来年には喜寿を迎える暇老人が、これ以上のわがままは許されないことと、実際に幾ばくかの費用負担をしなければ却って読んでも頂けないのではないかと思ったのである。

 そこで思いついたのが、出版に要する用紙、校正、装丁等、通常出版社が行う作業を総て自分で行うことにし、印刷費用と送料のみを読者に負担してもらうことにし、B6版、三百三十ページ、送料を含めて二千円以下にする事が最終目標としたのである。

 この目論見を以って、最初は家の近くの印刷屋の門をたたいたところ、ほぼ目標並みの価格に収まる見込みが立った。その後、書き上げた原稿を何度か校正を繰り返し、ほぼ装丁も終わったゲラ刷り原稿を持ってその印刷屋を訪ねたところ、「先月一杯で廃業した」と云うすげない話である。

 聞いてみると、もともと、主の他、二三人の女性(老婆)だけで細々やっていた印刷屋で(それだから頼んだ)、その中の中心となる女性に癌が発見されて手術することになったが、回復に見込みが立たないとの事で取り付く島もなかった。そこで、新たな印刷屋を探すことになったが、たまたま私が参加していた「古文書の会」で毎年文集を発行していて、それを依頼している印刷屋にぶつかったのである。

 場所は大阪駅近くで、早速私の作ったゲラ刷り原稿と、自作の冊子を持参して事情を説明したところ、「その程度ならやれる」と、極めてあっさり引き受けてくれた。

 勇躍家に帰ると、兼ねて用意していた勧誘のための往復はがきの発送に着手したのである。この勧誘はがきは、私が、年賀はがきを交換している知人・友人であり、締めて百二十人程である。この中で、私からの勧誘に応じてくれるのはせいぜい四十人程度であろうと予想した。これに、田舎の同級生が三十冊ほどを纏めてくれたが、それでも三十冊以上が残る事になる。これを身内の兄姉に頼み込んで、ようやく何とか辻褄を合わせられる見込みが立った。

 この時、印刷部数百冊、印刷費十八万、従って一冊当たり千八百円、これに「クロネコヤマト」のメール便送料が百六十円で、辛うじて二千円を下回る見込みであった。

 ところが、印刷屋から送られてきた請求書を見てビックリ仰天。何と、金額は同じだったが、印刷部数が百五十部だったのである。すぐに印刷屋に問い合わせたところ、「百部でも、百五十部でも印刷費は変わりない」という事であった。この時までに、勧誘の往復はがきはすべて発送済みであったが、考えてみると、百五十部、十八万だと一冊当たり千二百円となり、ほぼ当初目論んでいた文庫本並みの価格となる。

 結局、増刷になった分をどうさばくかという問題は残ったが、この条件を受け入れることにした。それからは勧誘はがきのあて先をはみ出し、多少でもコネの残っている所を恥も外聞もなく手当たり次第に勧誘に、勧誘を重ねた。

 結果は、またたく間に在庫が減り、一ヶ月足らずの内にほぼ完売となった。その後も注文は後を絶たず、こうなるといったん勧誘したものを、在庫切れを理由に断るわけにもいかず、嬉しい悲鳴を上げながら更に増刷することになった。

 勿論、この本の出版で収益等は始めから予定にも入れていなかったし、増刷分については印刷費の回収すら遠く及ばない。

 それよりも、何よりも嬉しかったのは、何人もの読者から読後感を寄せられたことであり、これは、今迄に私の出版物ではついぞ出あわなかったことで、寧ろ出版物ばかりではなく私の過去の経験の中で初めての事であった。

 勿論、出版物で二百部等と云うのはごく微々たるもので、自慢にも当らないが、この『山鳴り』出版を思い当たり、その時代背景、当時の百姓の生活習慣等を含めて、私の故郷の情景は、残された古文書は勿論、出版物など極力調べ上げ、先祖達の苦難の生活を書きあげたつもりである。

 十月に入ってから、芥川賞作家宮本輝さんの書かれた「水のかたち」を読み始め、余りの面白さと心地よさに時間の過ぎるのを忘れて読みふけった。何故心地よかったかと言えば、基本的には筆者である宮本輝さんの筆力によるものだろうが、主人公であり、身内から「白アンコウ」の愛称で呼ばれている「志乃子」さんと云う家庭の主婦の性格が余りに心地よかったからである。

 この本の中に「心は工(たくみ)な画師の如し」という言葉があるが、これは中国天台宗の粗智(ちぎ)が華厳経の中で述べられた言葉らしいが、意味するところは「心に不吉なことを描いてはいけない。楽しい事、嬉しい事を常に心に描いていると、やがてそれが現実になる」と云うような意味だそうである。読み終わってひと月足らずで再び読み直した。その心地よさは変わりがなかった。

 「水のかたち」とは比べることすらも失礼にあたるが、『山鳴り』が如何程の値打ちがあったか別にして、最近になって、ふと考えるに、もしかしたらこれが私のライフワークと云うものなのかもしれないと思うようになった。

 十二月になって、行きつけの近所の碁会所の打ち上げ会で、碁仇の一人が、私の事を、私が「水のかたち」を読んで、「志乃子」さんに思い描いたと同じような感想を、私に対して発言されたのである。

 私が、前にも述べたが蒋介石先生から褒められたその時から六十年、心のアクをすべて吐き出したいと思って書き続けた。

 最近になって、聊か筆速が鈍ったが、書きたい意欲はいささかも衰えてはいないが、これ等を含めて心の隅に残った灰汁が何となく少なくなったような気がする。(13.01.01仏法僧)