サイバー老人ホーム

331.ライフワーク(4)

 「ふるさと史物語『三寅剣の謎』」を書いている中で、実質的な私と古文書の出会いがあった。もともと、私の故郷には大量に残された古文書があると云う事は聞いていたが、実際に目に触れたのはこの時からである。

 尤も、目に触れたと云っても、昭和56年に、当時立正大学の教授だった北原進氏が直に私の村を訪れて、村に残された古文書を詳細に調べられ、「近世農村文書の読み方・調べ方」と云う本を残され、これを読んだのである。

 ただ、読んだと云っても解説や、訳文を読んだのであって、古文書そのものには全く歯が立たなかった。その後、私の住む西宮市に「古文書を読む会」と云うのがあることを知って、一も二もなく参加することにした。当初はあの泥鰌鍋をひっくり返したような文字は全くのちんぷんかんぷんで、ただ漠然と出席しているだけであった。その後、参考資料や、教材の古文書に触れるうちに、徐々に分かりだしてきて、やがて、教材の90パーセント以上が分かるようになってきた。

 こうなると、一気に興味がわき、もともと主目的であった百姓の生活習慣に軸足を置いた江戸時代の生活習慣を纏めることに意を注いだ。

 日本の文学や、芸能には、現代物と時代物がある事は誰でも知っているが、これ等時代物に取り上げられるのは、武士の国盗りや、剣術に関わるもの、更には勧善懲悪物、遊女の悲恋物などが通り相場となっている。

 ところが、国民の大多数を占めていた百姓の江戸風俗に付いて、古文書や、江戸時代の文献を調べて行くうちに、当時の日本人は極めて道徳的で、健康的な生活を送っていたか分かった。

 一般庶民が寺子屋や、手習い所で教育を受けられるようになったのは五代将軍徳川綱吉以降である。綱吉は、「犬公方」などと呼ばれて余り評判が良くないが、綱吉はこれからの日本は何をおいても国民の教育レベルを挙げる事が大切と考え、それまでの殺伐とした軍政を排除し、文治政治を推進した。

 手始めは、先ず武士の学問の中心として後の昌平坂学問所となる湯島大聖堂を建て、大名たちの教育に力を注いだ。その後、綱吉の教育熱は市民にまで及び、徳川時代の代表的な教育機関である寺子屋や、手習い所は綱吉の発言基づいて、ここから、日本人の教育熱は一気に高まり、猫も杓子も教育に熱中して行ったのだろう。従って、残された古文書も、綱吉の治世だった元禄時代以降の古文書が圧倒的に多い。

 それまでは、文字を書くなどと云うのは専ら寺社の住持や、別当と云われる神社に付属した神宮寺の住職が書き留めていたのではなかろうか。こうなると、一種の代理人であり、記載に嘘は無いとしても自分なりの判断が入る事になる。

 ただ、百姓などが書き残した物には、極力、事実を書こうとするわけで、村に残された古文書は真実の歴史だと思っている。

 私の故郷に残された古文書の一番古いものは、元和6年(1620)であり、元禄時代より70年も前の事であり、二代将軍の秀忠の時代である。尤も、私の子供の頃に、私の故郷の祖先たちは、「大阪の役」に鉄砲組として出陣したと云う事は何度も聞かされていた。ただ、「鉄砲組」と云うのは、戦国時代には雑兵集団であり、それほど感慨が有ったわけではない。

 ただ、寛永18年(1641)の古文書に、「先年仙石越前守(仙石秀久)殿御代に三十カ年退転(中断)仕り候処を庚申の年(元和六年)、仙石兵部殿(二代目)より我等共に新田に取りたて申し候へと仰せ付けられ、草木分け(起源)罷り在り候」と書かれていて、私の故郷は元和6年(1620)から新田開発に取り組み、その別の古文書によると「弘化元年(1844)より増し高となり、八十四石三斗五合の取り米(年貢)御割り付けにより明治元年まで上納致し来たり」と書かれている。

 私の祖先たちが新田開発を命じられたのは、日本一の大河千曲川の上流の信州佐久平のその最奥の福山田圃である。入墾当時は、度重なる千曲川の氾濫で、人も住まない荒れ地であった。

 私の故郷は、天領だったので、その当時に年貢は村高に対して三割五分程度だったと思われるので、この時の村高(出来高)は二百四十石程度ではなかったろうか。当時、田圃と云うのは下下田から、上田まで四段階に区別されており、私の故郷はせいぜい中田程度であったろう。中田は一反当たりの収量を一石三斗と評価していたので、従って、耕地全体では多少の出入りが有るとして二十町歩程度と推定している。此の二十町歩の田圃を、祖先たちは二百二十四年懸かって拓いてきた事になる。

 今から三年程前に故郷に帰った時、何年振りかで福山田圃を歩いてみた。福山田圃に通じる道は、私がいた頃は県道であり、舗装もしてなければ道幅も狭い砂利道であった。

 その後国道141号線と代わり、舗装された片側一左車線の堂々たる道に代わっていた。そして、道の両側には商業施設が建ち並び、国道から外れた田圃は見るも無残に荒れ果てていた。中には、田圃の中に直径が30センチもある巨木が生え、福山田圃で農作業にいそしむ農民の姿などどこにも見当たらなかった。

 だからと言って誰の責任でもないが、今の姿を祖先たちが眺めた場合、一体どのように感じるだろうかと思うと、これが時代の流れと考えるのはあまりのもおぞましい。そこで思いつたのが、せめてここに祖先たちが二百四十年もの歳月を懸けて開いた「福山田圃」が有ったことを示す物語を残すことを思いつき、田舎に残った同級生たちの賛同を得て、私にとっても初めての経験である時代小説「山鳴り」を出版することにしたのである。(12.12.15)