サイバー老人ホーム

331.ライフワーク(3)

 私が定年を迎えた頃からパソコンソフトにウインドウズが開発され、文章を作ることなど何らの障害も感じられなくなったのである。

 私は、現役頃からパソコンと云うものに非常に興味を持っていたが、仕事のシステム化については様々な事に取り組んだが、プログラミングについては経験することが無かった。

 ただ、昭和50年代に、ベンチャー企業の雄として一世を風靡したソードという会社が「PIPS」と云うOSを開発して注目された。簡単なプログラム言語を並べることで簡単プログラミングが出来ると云うことで、今のソフトバンクの孫社長などもかなり注目されていた。

 この「PIPS」を使ってのシステム化は瞬く間に出来上がるため面白いほど熱中したことがある。その後、ウインドウズが開発され、間もなくソード社は姿を消したが、私がプログラミング的な事に従事したのはこの時だけである。

 ただ、プログラミングには、ハードそのものについてのある程度の深い造詣が必要であり、何度か挑戦したがそこまでは及ばなかった。

 定年間際にパソコンを買い求め、会社の電算室スタッフの指導を得て、退職するまでにはほぼ扱い方はマスターした。

 そこで、まず最初に取り組んだのは、当初全国的に注目されていたインターネットのマイホームページを立ち上げる事であった。退職して二年目迄にホープページを立ちあげた。

立ち上げるにあたって、まず問題になるのはどの様な内容のホームページとするかである。始めの頃は珍しさもあって、アクセスする人も多いが、やがて珍しさが消えると、同時に忘れられることになる。

 結局、老人をテーマにしたもので、五つばかりのコンテンツを用意してスタートしたが、私の方が長続きしなかった事もあり、立ち上げ以来十五年の命脈を保っているのは、私が、子供の頃から絶えることが無かった文章を作る、エッセイ、日誌の類だけである「孤老雑言」だけであった。

 この源泉は、私の半生に、ダンプトラック一台分もの鬱積した様々な思いで、私が感じた、見る物、聞く物、食べる物、あらゆる事について好奇心を感じた事はすべて文章にする事であった。

 このコンテンツの冒頭に、「人は歳月を重ねるだけでは老いない。理想を失った時から老いは始まる」というサミュエル・ウルマンの一文を借用し、以下、「古人曰く、『小人閑居して不善を為す』と言う。まさしく大人ではないのでしからば小人か。その小人が定年とともに否応無しに閑居することになった。その小人がどのように不善を為すか篤とご覧あれ」と記したが、まさに「孤老雑言」であった。

 当初は、衣食住、風俗、全てにわたって、思いついたものを手当たり次第に文章としてまとめる事が出来た。従って、一カ月に三回の更新をするほど熱中した。そして、その翌年、待望の自作パソコンを組み上げ、私のパソコンに対する執着心は更に高まったのである。

 この頃、二十歳代から中断していた山登りと、中学生時代から遠ざかっていた油彩を復活させ、日々、私にとってまさに至福の絶頂期であった。

 ところが、好事魔多し、の喩えのように思わぬ事態が出来(しゅったい)した。自分では殺されても死なないなどとうそぶいていたのが、パソコンを始めて三年目のある日突然脳梗塞と云う病に冒されて、右半身麻痺の障害者となったのである。尤も、ある日突然ではあるが、その前科は、若い頃から常に繰り返して来た不埒の生活態度のなせる業であり、極めて妥当な神の采配であったわけである。

 これによって、まず運動系のものは一切制限され、加えて、機能回復のためのリハビリと、それまで不埒な生活から引き起こされた生活習慣病から抜け出すための闘病生活が科せられることになった。

 従って、私の生活の三本柱の一つ山登りが先ず出来なくなった。それ以外の、文章を作ることに対しては、頭の中身はさほど変化はなさそうで、右手は使えないことから左手だけでキーを打つことによって何とか体裁を保ったのである。もう一つの柱、油彩はかなり苦労した。書くと描くは言葉では同じだが、この時の私の書くは、キーボードを叩くだけで用はたりるが、油彩の描くはそうはいかない。

 ところが面白いもので、それまでは細密に描写することに拘っていたが、左手で画くと云うことになると描写が稚拙になる。ところが絵画として見ると此の方が面白い。しかし、だからと言って、もともと絵画と云うものの描写にすぐれていたわけではなく、加えて寄る年並みで体力も続かなくなり、ライフワークの領域にはとても至る迄もなく最近になって辞めてしまった。

 ただ、何時も出展していた宝塚市展に、右左どちらの手で描いた作品も入選した事は多少ながら気休めに成り、最近、手元に残した作品を自分の部屋に掲げてみて思い出に浸っている。

 こうなると生甲斐と云うと文章を書くと云う事だけになる。しかし、無尽蔵にあると思われていた雑念と云ってもそうは続かない。当初は月三回の更新をやっていたものが、やがて二回になり、そして一回のなってしまったのである。

 そんな中で、再び長文の作品を書きたい衝動が起こった。再びと云えば大げさだが、友人から送られてきた資料の中に、私の故郷の年表を著わした物があったのである。故郷言えば、御存知、信州佐久地方である。これを見て、「待てよ、生まれた村の歴史って一体何なんだろう」と思い着いたのである。

 それと云うのも、平成六年に、「国宝級、聖徳太子の剣に匹敵」の大見出しで、我が故郷から宝剣が見つかったという記事が一流紙の社会面のトップの載ったことがあった。その時は「エエッ」と驚きはしたが、それ以上の感慨はなかったのである。

 そして、それから十年の歳月を置いて、ホームページ立ち上げから六年後に「ふるさと史物語『三寅剣の謎』」を書上げ出版したのである。しかし、これ等の中にも、私のライフワークと思しきものは見つからなかった。(12.12.01仏法僧)